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2014年5月7日水曜日

創業家列伝~安藤百福(日清食品)

 以前にアメリカメディアが「世界に影響を与えた偉大な日本の発明品」というテーマの企画を持った際、零戦やウォークマン、果てには八木アンテナを抑えて堂々の一位に君臨したのはなんとインスタントラーメンだったそうです。現代日本人からするとそこにあるのが当たり前に近いインスタントラーメンですが、お湯だけでどこでも食べられる上に腐らないで長期間保存できるというこの画期的な食品は文字通り世界の食を変えた一品であり、その影響度は確実にウォークマンを上回ることでしょう。そんな偉大な食品は、大阪に住む失業したおっさんが一人で発明したという事実こそが何よりも面白いのです。

安藤百福(Wikipedia)

 後に日清食品を創業する安藤百福は日本統治下の台湾嘉義県の生まれで、幼少時に両親をなくすと繊維問屋を経営していた祖父母によって育てられます。若い頃から独立心が高かったようで22歳の頃には靴下生地に使うメリヤスを取り扱う商社を設立して成功し、大阪に拠点を移してからはメリヤス以外の商品も取り扱い商売の幅を広げます。
 この時の安藤百福の行動で非常に興味深いのは、既に会社を経営する身分でありながらもわざわざ立命館の夜間部に入り勉強をしていることです。今更ながらですが自分も高卒と同時に昼間部に進学するよりも、普通に就職して夜間部に入っていた方がなんかかっこよかったかもしれません。

 話は戻りますが実業家としてその後も順調に行った、かと思いきや、自分で調べててなんでこんなにというほど数々の苦難に安藤百福は見舞われます。戦時下では軍需品を横流ししたと嫌疑をかけられ憲兵に暴行され(後に無罪とわかる)、さらには空襲によって自社の工場や事務所が全部消失するという憂き目に遭います。それでもめげずに戦後は製塩業を営んでまたもや当てるも、その保有する資産がGHQに目を付けられて、恐らく接収する目的だったのでしょうが脱税容疑で巣鴨プリズンに投獄されたそうです。その後、紆余曲折の交渉を経てどうにか無罪は勝ち取ります。
 なお戦後のこの時期、日本は食糧難ということからアメリカから大量の小麦粉の支援を受けます。この小麦粉はパンとして配られるのですが安藤百福はこれに対し、「アジア人の伝統的食品である麺にすべきではないか」と提言したものの、大量に製麺できる設備や技術が当時に不足していたことから見送られ、逆に役所からそのような事業を営んではどうかと言われたものの、当時は事業化をあきらめたそうです。まさかその後、本当に世界一のインスタントラーメンメーカーになるとは本人も気づかなかったでしょうが。

 話は安藤の受難の日々に戻ります。日本が独立を果たして安定期に入り始めた1957年、安藤は「名義だけでいいから」と言われてある信用組合の理事長に就任するも、直後にその組合は破産し、責任を取る形で安藤は一切合財の財産を弁済費として徴収されます。自宅だけは徴収を免れたものの46歳にして無一文となり、子供もまだ小さかった頃にもかかわらずえらい状態に陥ります。

 そんな厳しい状況に陥った安藤が何をしたのかというと、なんと自宅の庭に掘っ建て小屋を作って日がな一日そこに籠り始めたのです。そこで何をしていたのかというと、かねてから構想にあったどこでもすぐに作れて食べられるインスタントラーメンの製造で、助手とかそういうのは一切なしに、ただ一人で黙々と一年間も実験していました。仮にこんなおっさん近くにいたら、「変な人もいるな」と私なら考えちゃうかと思います。
 安藤の研究が大きく前進するきっかけとなったのは、奥さんが天ぷらを揚げる姿をふと見た瞬間でした。一旦茹で上がった麺を油で揚げることによって乾燥し、そこへお湯をかけるとまた食べられる麺に戻るということを発見し、すぐにこの製造法で特許を取ると世界初のインスタントラーメンであるチキンラーメンをこの世に生み出します。

 世に出たチキンラーメンは当時は家内制手工業のようにして一から作っていったものの問屋の反応はあまり良くなかったようです。ただ口コミでどんどんと人気が広がってからは作っては飛ぶように売れるようになり、大きな製造工場を構えて徐々に量産体制を整えていきます。そしてその人気を最高潮にさせたのはほかならぬテレビCMで、現在の日清食品も時代ごとにいいテレビCMを作っておりますが、早くにその宣伝効果に目を付けた安藤は当時の日清食品の資本金が二千万円だったにもかかわらず、年額二億四千万円もの広告費を出してチキンラーメンを広めました。

 破竹の勢いはその後も続きます。チキンラーメンの普及に成功した安藤は今度はアメリカでこれを売り出そうと渡米します。ただ現地の人間に実演しようとしたところチキンラーメンを入れるどんぶりが現地になく、「こりゃ困った」と言ってたら、「これでいいじゃん」と、商談相手のアメリカ人がチキンラーメンを二つ三つに割ってその場にあった紙コップに入れてお湯を注いだそうです。これを見た安藤はまさに「これだ!」とひらめき、このひらめきがカップヌードルの量産に結びつくこととなります。
 カップヌードルの量産は袋詰めするチキンラーメンと違って揚げた麺が傷つきやすいなど苦労が多かったものの、揚げ上がった麺に上からカップを被せるという逆転の発想によって首尾よく量産にこぎつけます。このカップヌードルはあさま山荘事件の際に警官が食べるシーンが繰り返し放送されたことによってこちらも見事に大ヒットし、言うまでもなく世界中で類似した商品が毎日消費されております。

 言うまでもなく安藤はインスタントラーメンのパイオニアであり、なおかつ中正な保護者でもありました。チキンラーメンのヒット後には追随する業者が現れたため特許や商標を取得して一旦は保護したものの、1964年には日本ラーメン工業会を設立して一切の製造法を公開して自社の独占よりも市場の拡大を優先するという判断を下します。こうした背景があるもんだから、中国の即席麺大手の康師傅の工場を見ながら、「こいつら、安藤百福のおかげで商売できてるってこと知ってんのか?」なんて、やけに上から目線で妙なことを私は呟いてました。

 現在、インスタントラーメンは宇宙食にも使われるなどその用途は広がり続けております。安藤自身は2007年に96歳で没しますが、死去の三日前にはゴルフで18ホールを回り切るなど最後の最後までエネルギッシュな一生を送っていたそうです。ニューヨークタイムスは安藤の死去を受けて社説を載せその功績を讃えると共に、「人に魚を釣る方法を教えればその人は一生食べていけるが、人に即席めんを与えればもう何も教える必要はない」という見事な文句で結んでいます。

 私は安藤が生前だった頃から並々ならぬ尊敬の念を抱いていましたが死去後にはより興味が強まり、当時関西に住んでたもんだからその死から二、三ヶ月後、名古屋に左遷されていた親父を誘って大阪府池田市にある「インスタントラーメン発明記念館」を訪れました。そこでは安藤の一生とインスタントラーメンの発明に関わる様々なパネルや展示品などと共に、展示モニターの中では安藤を模したアニメキャラクターがVTRで、「宇宙食にも採用されたが、まだまだ夢は広がるし挑戦は終わらない」という言葉を述べていて未だに強い印象を覚えております。もっともその横で若い兄ちゃんが、「まだまだって、こいつこの前死んだやんけ」とツッコミいれてましたが……。更についでに書くと、インスタントラーメン発明記念館を出た後はすぐ近くにある「落語みゅーじあむ」 を訪れて親父がやけにはしゃいでました。

 安藤百福について私の意見を述べると、不撓不屈という言葉はまさにこの人のためにあると思える言葉で、様々な困難に直面して何度も破産の憂き目に遭うも挫けずに何度でも立ち直るその姿は偉人というべきほかありません。この連載では今後も多くの創業家を紹介していくつもりでありますが、どの創業家も類稀なバイタリティと共に優れた発想のセンスを持っていることは間違いないものの、事業が成功した背景には時勢に恵まれたことや優秀な相棒や部下に恵まれたなどという可能性も捨てきれません。
 しかし安藤百福は違います。彼の場合は明らかに時勢に恵まれてないどころか余計な妨害を何度も受けています。それにもかかわらずただ一人でインスタントラーメンを発明した上に産業化までして世界の食を変えてしまったという事績を思うにつけ、他の創業家とは一線を画す人物ではないかと思います。

 ちょっと前に「めだかボックス」 という漫画の球磨川禊というキャラクターが好きだと書きましたが、この頃思うこととして勝ち続けることが本当の強者なのかと疑問に感じてきています。むしろ、どれだけ負け続けても何度でも這い上がろうとする、たとえ勝利が得られなくても屈することなく揺るぎない強い信念で挑戦し続ける人間こそが真の強者ではないか、このように思うにつけ安藤百福は本当の強者だったと思え尊敬の念が絶えないというわけです。


今年2月の大雪時に横浜市にある「カップヌードルミュージアム」で撮影されたワンシーン。


  参考文献
「実録創業者列伝」 学習研究社 2004年発行

2014年5月6日火曜日

創業家列伝~大河内正敏(理研コンツェルン)

 前々から準備をしていたものの資料の読み込みがめんどかったりとなかなかスタートが切れませんでしたが、いつまで続くかわからないものの日本の創業者を紹介する連載を始めようと思います。第一発目の今日は私が一番のお気に入りである安藤百福と行きたいところですがちょうどホットな時期なので、現在のリコーや理研ビタミンの源流となった理研理研コンツェルンを起ち上げた大河内正敏を取り上げます。

大河内正敏(Wikipedia)

 大河内正敏は旧大多喜藩主であった大河内正質の長男として、大久保利通が暗殺された明治十一年(1878年)に生まれます。一高を経て東大に進学すると造兵学科に入り、火薬や弾丸を始めとした軍需品の研究を行い首席で卒業するとそのまま東大講師となり、途中の英国留学を経た後に正式な教授となります。教授時代には弾丸の流体運動を測定しようとするなど兵器研究において物理学の概念を本格的に持ち込み、日本の重工業発展に寄与したと評価されてます。

 そんな学者畑の大河内がどのように理研と関わるようになったのかを説明する前に、簡単に理研こと理化学研究所の成り立ちを説明します。理研は大正六年(1917年)に自然科学の研究機関として民間からの寄付などを元に、渋沢栄一が財団法人として発足します。建前は国家の期間としつつも民間の資本を導入したことから、国の政策にとらわれない研究機関として作られた節があります。

 大河内はこの理研の三代目所長として就任し、、研究分野ごとに研究室を独立させる現在にも続く主任研究員示度を導入します。そしていろいろコネを使いまくったのでしょうが国からの補助金を増やす一方、自分たちで独自に研究資金を集めることが出来ないかと模索します。そうした模索の中で生まれたのが「発明の産業化」という発想で、自分たちが発見、発明した技術をそのまま商品化、量産化にまで持っていき、法人化した上で自分たちで売り資金を集めるという案でした。

 この発想の第一号となったのは最近一部メディアでも報じていますがいわゆる「ビタミンA」で、高橋克己鈴木梅太郎が製造法を確立させると既存の医薬品メーカーを通さず自分たちで製造設備をこさえてビタミンカプセルとして売ってみたら大評判となり、国からの補助金を上回るほどの売上げを得たと言われます。
 このように研究所内で培った研究結果を片っ端から商品化していくという、今でいうベンチャービジネスを理研は展開していきます。販売にはたっては理研の資本で設立した「理化学興業」を窓口にして、製品や産業分野ごとに子会社を理化学興業の下に設けて広げていき、徐々に理研コンツェルンと呼ばれる産業集団へと発展していきました。

 当時に作られた主だった企業を挙げると、食品分野では理研栄養食品という、現在の「増えるわかめ」の販売で有名な理研ビタミンが設立され、ほかには感光紙を製造していた理研光学工業は現在のリコーとなっています。ただそれら以上に理研コンツェルンで基幹企業となったのは軍需分野に関わる理研金属工業と理研ピストンリングの二社で、両社ともに日本の重工業を担う会社となっていき、前者は現在も同じ社名で、後者は「リケン」という名前で現在もピストンリング製造では国内最大手です。

 このように学術研究を実業への転換ルートを作った大河内と理研コンツェルンでしたが、戦時中に国策もあったでしょうがグループ各社は合併して理研工業にまとめられ、戦後はGHQから財閥指定を受けてまた解体されるという妙な経緯を経ています。大河内自身はA級戦犯に指定され巣鴨プリズンに入ったり公職追放の憂き目に遭ったことから理研の所長を辞任し、公職追放が解かれた翌年の1952年に脳梗塞で死去します。

 彼の功績を一言で言うなら産学提携ならぬ産学両立を一挙にやってのけてしまった点でしょう。造兵学をやっていたということから合理的な思考が出来てこういう決断が出来たのかなと思うのと同時に、 現在の理研ではこういう発明の産業化を自前ではやらないのかなという考えがよぎります。余談ですがレノボなんて北京大学の研究室からスタートしてるんだけど。

 最後に、今回のというかこの連載の参考文献として学研から出ている「実録 創業者列伝Ⅰ、Ⅱ」を紹介します。読み物として非常に優れており資料的価値が高いことから肌身離さず持ち続けている本で、今日書いたこの記事もほとんどこの本から引用したものに過ぎません。興味ある方は本気で手に取ることをお勧めします。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

2014年5月5日月曜日

今朝の地震と東原亜希氏のブログ

 関東地方在住の皆さんには既におなじみでしょうが、今朝五時過ぎに最大深度5弱を記録した地震が関東地方で発生しました。自身が起きた当時に私はぬくぬくと布団(何故か畳の上に掛布団だけで寝てる)にくるまって寝ておりましたが、揺れの大きさとちょっとの揺れで戸板のガラスがガタガタ鳴り出す安心設計の自宅構造からすぐに目が覚めました。揺れが結構大きかったもんだから何か頭にかぶるべきか、着替えるべきかとも少し思いましたがまだ眠たかったので布団の中から私は動きませんでしたが、引っ越し時の挨拶にカステラ持っていったのに居留守こきやがった隣の中国人宅からはなんかばたばた動く気配が聞き取れました。なおカステラは自分で食べました。

 ただ布団から動かなかったものの、内心で「これはもしや……」と頭に浮かぶものがありました、それは何かというと、芸能人の東原亜希氏が先日更新したブログの内容です。

【デスブロガー】東原亜希さんがブログを更新 膝の内側半月板を水平断裂する 「しゃがめない、泣きたい(泣)」(アルファルファモザイク)

 元となったニュース記事はつい昨日配信されたもので、その内容というのも東原氏がやや大きな怪我をしたということを綴ったブログを更新したもので特段驚くようなものではありません。そう、このブログを書いたのがあの東原氏でなければ……。

 知っている人には有名ですが東原氏のブログは「デスノート」、「デスブログ」などと呼ばれ、書かれた内容に関係する人物や企業などが必ず不幸な目に遭うという妙なジンクスがあります。このジンクスの元となったのは東原氏が競馬番組に出演していた際、本命予想する馬が悉く外れるため「東原に予想されると必ず負ける」と番組内で言われたことがきっかけです。
 この噂は現場騎手たちの間でも有名だったようで、武豊氏、武幸四郎氏の兄弟は揃って「自分の乗る馬を予想しないでほしい」というほどでした。しかしこの発言に対して東原氏は「だったら書いてやろうじゃないか」と武幸四郎氏の馬を予想した所、見事にそのレースで幸四郎氏は敗退したそうです。
 幸四郎氏に関するエピソードはほかにもあり、改めて自分の名前を書かないでほしいと番組中で幸四郎氏に言われたところ「ガンガン書いてやるから」 と言った二ヶ月後、幸四郎氏はレース中に落馬。骨折を含む重症だったとのことで、その後しばらく東原氏は幸四郎氏に会っても無視されたそうです。

 以上のは競馬に関するエピソードですが、ブログでオリンパスのこと書いたら粉飾決算がばれたりなどと、タイミングが良すぎるくらいに東原氏のブログに書かれた対象が何らかのアクションが起こっています。私も、いくらなんでもこじつけではないかと思う一方、それにしたって的中率が異常だと前から思っており、ネットでも議論されていますが何かしら研究対象になってもいいような、少なくともSTAP細胞現象よりは信憑性あるようななんて思ってたりします。

 話は本題に入ります。今朝の地震が起きた際に私は昨夜に読んだ上のリンク先にあるまとめ記事を重し出しておりました。この記事では東原氏が怪我したというブログの更新内容について、

「半月板損傷ってことは、月が割れるのか?」
「日本の膝が危ない?日本の膝ってどの辺?」

 なんていう冗談めかした議論が展開されていたのですが、その中の一つに「断裂って、地震が起こることを意味してるんじゃないか?」と予想する人もおりました。そして仮に地震が起こる予想だとして震源地はどこになるのかという話へと発展していき、

「お膝元ってことは東京?」
「膝→飛騨?」

 なんていう意見がある一方、

「膝→hizaの内側 h(iz)a→izつまり、伊豆」

 と書く人がいました。伊豆、そう伊豆、今朝の地震の震源地です。
 何度も言いますが、こじつけじゃないかと思う一方で今日のはマジでビビりました。畳の上でゴロンゴロンしてからようやく8時過ぎに布団出てテレビでニュースを見てみるとマジで今回の地震の震源地が伊豆だと報じられてて、「嘘だろ(;゚Д゚)」なんて言葉が自然と洩れてきました。もう自分が実験台となってブログに書かれてもいいから、東原氏のブログに関して本気で研究すべきなんじゃないかと思った次第です。にしても現代のノストラダムスだなこりゃ。

2014年5月4日日曜日

閲覧時間の長い検索キーワード

 このブログはその他一般のブログ同様に「Google Analitics」という分析してくれるサービスを受けております。そこでリサーチしてくれるデータで私が特に注目するのは閲覧数ではなく実は検索キーワードなのですが、ヒット数の多い検索キーワードよりも見ていて面白いのは実は閲覧時間の長い検索キーワードです。というのもヒット数が多いのも一つの指標として価値は高いものの、このブログはどちらかと言えば固定読者を獲得することに重きを置いており、一体どの記事に注目してくれて訪れた人間が固定読者となっていくのか、そういうものを測る上ではやはり閲覧時間を中心に置いて調べるのがベターだと考えるわけです。

 そこで今日はほかの人にも参考になるかなと思うと同時に、数年後の自分に記録を残しておくという意味で閲覧時間の長い順に検索キーワードを、自分のコメント共にここに書き残しておくことにします。というわけで、早速順位表とコメントをどうぞ。


順位 検索キーワード 閲覧時間
1 部活 嫌い 無駄 1:23:00
2 匿名性 攻撃性 0:47:43
3 若者 なぜ 幼稚 0:36:44
4 石田三成 再評価 0:36:14
5 全斗煥 地下鉄 0:35:56
6 青椒肉絲 語源 0:31:19
7 日本軍 猛将 0:27:21
8 韓国 近現代史 戦後 0:25:03
9 坂本龍馬 過大評価 0:24:10
10 フィットハイブリッド 解説 0:23:20
11 韓国 限度額 カード 0:23:02
12 ミズノ 統一球 コメント 0:19:15
13 あさま山荘事件 漫画 0:18:11
14 関ヶ原の戦い原因 0:17:28
15 中小企業人材不足 0:16:45
16 漫画雑誌 売り上げ 推移 0:15:01
17 平均 人材派遣マージン率 0:13:38
18 死刑 報復 0:13:32
19 信陵君 0:13:32
20 インド旅行記 女 0:13:00
21 宮崎少将 0:12:38
22 マオイズム 毛沢東思想 0:12:16
23 シドニア 意味 0:12:06
24 栃木女児殺害知恵袋 0:12:01
25 受刑者の家族 ブログ 0:11:33
26 リクルートスタッフィング マージン率 公開 0:11:30
27 漢 中国 簡略 0:11:13
28 湾岸戦争 イラク 人質事件 0:11:10
29 花粉症 製薬会社 儲かる 0:10:35
30 シャッターアート トリック 0:10:08
31 豊臣秀吉 人材マニア 0:10:04
32 ホンダフィットリコールの影響 0:09:54
33 百年戦争 モチーフ ゲーム 0:09:45
34 現代 若者 弱い 0:09:10
35 シルミド事件 写真 0:08:46
36 オトナ帝国 考察 0:08:33
37 テルル シドニア 0:08:05
38 とき325号 脱線事故 0:07:50
39 働けど働けど石川啄木意味 0:07:23
40 インパール作戦 宮崎 0:07:17
41 北関東ルパン 0:07:11
42 シャルロットコルデー 0:07:07
43 藤堂高虎 三成 尋ね 0:07:04
44 豊臣政権 0:07:04
45 自転車 房総半島一周 0:06:46
46 松岡洋右 0:06:25
47 ネット左翼 0:06:24
48 ワタミ介護の印象は? 0:06:14
49 古代史の謎 0:05:54
50 学問の流行り廃り 0:05:47

>1位 部活 嫌い 無駄
 いや、俺も嫌いだけどなんか熱心に読んでくれたね。

>6位 青椒肉絲 語源
 このネタで記事は確かに書いた。けどこんな長々読む内容だったっけ。

>13位 あさま山荘事件 漫画
 「レッド」という漫画についてでしょう。あんまりレビュー書く人いない漫画だしね。

>17位 平均 人材派遣マージン率
>26位 リクルートスタッフィング マージン率 公開
  前書いた記事がヒットしたんだろうけど、これはもっと評価されてもいい記事なはず。

 >20位 インド旅行記 女
 俺男だよ。

 >45位 自転車 房総半島一周
 あんな記事で参考になるのかなぁ。

>21位 宮崎少将
>40位 インパール作戦 宮崎
  最近減ってきてはいるけど、意外と底堅いキーワードだね。

 今回のキーワード中で気になったのは、「文化大革命」に関するキーワードがないのは珍しいと感じました。というのも大体いつも一つや二つ、それもかなり上位に食い込んでるからです。まず間違いなくあの文革に関する連載記事がこのブログ最大のキラーコンテンツなだけに、もっと文革について興味を持つ人が増えてくれればこのブログもヒットするはず……なんですが、文革に興味を持つ人間が増える日本ってのもなんかおかしいような。もっともそれを言ったら、自分の年齢でこれほど文革に執着する日本人もほかにいないだろうな。

野ざらしの屍を弔った男たちの末路

 先日書いた「中国四大美女について」の記事で楊貴妃について紹介しましたが、この際についでだから彼女にまつわるある寓話を紹介しようかと考えたのですが、仮にのっけたらかなりの長文となって全体の構成が崩れると思い見逃しました。そしたらコメント欄でちょうどその寓話について指摘してくれるコメントを頂け、個人的にも気に入ってて是非紹介しようと思っていた寓話なので今日はそのお話を私の方から紹介しようと思います。

 この話はショートストーリーをまとめた中国明代の書物、「笑府」に載せられているエピソードです。

 昔々あるところ(もちろん中国)で、一人の農民が野ざらしとなっていた屍を見つけました。不憫に思ったその農民はその屍を丁寧に弔って家路についたところ、その夜に男の家の門を「トントン」と小さく叩く音が鳴りました。
 男が門を閉じたまま、「どなたですか」と尋ねると「フェイです」という答えが返ってきたので、男は続ざまに、「フェイさんって、どこのフェイさんですか?」と問うたところ、「妃(中国語の発音で「フェイ」)です。楊貴妃です」と返ってきました。男が門を開けてみると確かに歴史書に出てきそうな衣装と類稀な美貌を持った楊貴妃が立っており、一体何故こんなところにと聞くと、

「私は安史の乱の際に処刑されて以降、屍はずっとあの場所に放置されたままでした。それを今日、あなたが丁寧に弔ってくれたので今宵一晩のお供しようと参りました」

 と説明したので、この際幽霊でもいいかと割り切った男は楊貴妃を家に招き入れ、楽しい一夜を過ごしたそうです。

 男はこの不思議な体験を近くに住む男に話したところ、その男も同じ思いにあやかりたいと思って野ざらしとなっている屍を探しました。散々探し回った挙句ちょうどいい具合に放置されている屍を男は見つけたので、最初の男同様に丁寧に弔って家路に着きました。するとその夜、「ドンドンドンドン」と、まるで借金取りが取り立てに来たかのように激しく家の門が叩かれたので、「ど、どなたでしょうか」と男が門越しに尋ねると、「フェイだ!」という大声一声。「ど、どちらのフェイさんでしょうか?」と続けざまに尋ねると、「フェイだよフェイ。張飛の飛(中国語の発音で「フェイ」。何気にさっきの「妃」と同じ第一声)だっつの!」と野太い声が返ってきました。
 男は恐る恐る、「ちょ、張将軍がこんなあばら家にどんな御用で……」と問うと、「おう。俺は死んでからずっとあの場所で屍が放置されたままだったんだ。それを今日お前がきちんと弔ってくれたんで、一つお礼に一晩付き合ってやろうと来てやったんだ」と話し、嫌がる男と共に熱い一夜を過ごしたとのことです。


 この寓話は後に日本で翻案され、落語の「野ざらし」の下地になったと言われております。あとkの寓話が我々に教えてくれる教訓としては、二匹目のどじょうを拾うようなことはよくないってことと、どんなエピソードだろうと張飛の濃いキャラクター性はどこでもいかんなく発揮されるんだなってことです。二番目の男も必死で門を開けまいとしただろうけど、張飛のキャラクター性なら一発で蹴り飛ばす姿が簡単に想像できるし、幽霊でも全然強そうだ。

2014年5月2日金曜日

山田風太郎の日記を読みだして その二

 昨夜自らを「習近平」と名乗る男から電話があり、「ウルムチの件でむっちゃ忙しいねん」と言って自分に早く上海へ来るよう言ってきました。一体、俺に何をしろというんだあの上海人の友人は。

 話は本題に入りますが、前にも書いたように山田風太郎が戦前に書いた日記をこの頃読んでいます。今は1943年の部分を読んでいるのですが、上京してまで浪人生活を続けていたのに山田風太郎はこの年の医学校の試験には受験した二校とも落ちて、さすがにショックだったのか落ちたという事実を記した後は約一ヶ月にも渡って日記を綴るのをやめてます。お世辞にも、当時はあんま勉強してるようには見えないから落ちるのもしょうがないかなって気もしますが。

 ただ不合格のショックから立ち直ってまた書き始めた日記に、読んでてちょっと面白い点がありました。それはどんな点かというとインドのガンディーに関する記述です。

 その日記によると、当時ガンディーはインド独立を認めないイギリスへの抗議活動としてハンガーストライキをやっていたそうです、これに対して山田風太郎は絶賛し、暴力を伴わず断固として独立を要求する姿勢が素晴らしいとした上で、日本もインドの独立を支援するために軍事作戦を今後も展開しないといけないとか、将来ガンディーはブッダやイエスなどの聖人に列するだろうなどと激賞しています。
 ただそれだけべた褒めしてから数日後の日記だと、ガンディーがハンガーストライキで目的の日数を達したとしてオレンジジュースを飲んだ(=やめた)という新聞報道を引用した上で、

「何なんだあの野郎。やるならちゃんと餓死するまでやればいいってのに中途半端に終えやがって、あの感動をどうしてくれるんだ」(意訳)

 という風な感じで、今度は激しくガンディーをディスる内容を綴ってました。気持ちは分からなくもないが、あんだけ誉めた直後にこういうことを書くのもなぁと読んでて苦笑する内容です。

 ここで最初の話に突然戻りますが、先日中国のウイグル族自治区で起きた爆発事件について日本のメディアは中国での発表や報道を引用し、自爆テロであった可能性が強いなどとした上で、実行したのは中国からの独立を目指すウイグル族グループとみて捜査が進んでいるなどと報じています。そのほか解説として現地での独立運動や過去にあったこの地での事件などを合わせて報じておりましたが、この事件をテロ行為だとして真正面から批判するような報道はついぞ見当たりませんでした。

 現地で独立運動があるのは知っていますし、中国がその運動家を弾圧しているのもほぼ間違いない事実です。だからと言ってはなんですが、もし中国政府の発表の通りにこの事件が活動家らによる自爆テロだとしたら、無関係の人間を巻き込むこのような手段には一片の正義もないと私は断言できます。何も暴力なしで革命が達成できるなんていう甘い考えを私は持ち合わせておりませんが、少なくとも多くの一般人もいる公共の場で爆発を起こしても何もひっくり返ることはなく、いたづらに人を傷つけるだけの最低な行為でしかありません。
 なんていうか、日本のメディアの報じ方は素っ気ない感じであるのと、独立運動があって中国政府への反抗としてこういう事件が増えているなどと、ちょっと穿った見方をすると、中国からの支配を脱するためにはやや仕方ないのでは、なんていう言い方をしてるようにも見えます。

 ガンディーの非暴力不服従は言うは易く実行するには難い概念であるものの、アルカイダに始まる一般人を巻き込むテロはもはや何の政治活動でもなく、ただの暴力です。余計な状況説明はいいから批判する一言でも盛りこんだらどうかと、日記帳に付けてこうと思ったわけです。

2014年5月1日木曜日

中国四大美女について

 また中国のウルムチで一騒動があったようですが、当局はともかく日本がどうこう騒ぐほどの事件なのかなと思うので自分はスルーしようかと思います。中国当局側の立場に立つなら、こういう事件が散発的に起きている間は事件捜査はしっかりしなければならないものの、組織的で連続的に起こらない限りはまだ安心できると言ったところじゃないでしょうか。

 話は本題に移りますが、中国四大美女と言ってすぐに四人全員の名前を挙げることが出来るでしょうか。多分楊貴妃と貂蝉の名前は出てきても西施と王昭君の名前とエピソードは出てこないと思うので、いい機会だしこのブログで簡単に紹介しようと思います。

中国四大美人(Wikipedia)

1、西施
 西施は中国の春秋時代(紀元前5世紀?)の人物で、「呉越同舟」という言葉の元になるほど仲の悪かった呉と越という国の抗争史に出てきます。呉と越の国は昔からしょっちゅう争っていましたが呉王が夫差の時代に越王の勾践は一度大敗し、降伏の条件として勾践は夫差の奴隷として働く時期もありました。ただ勾践はその後に罪を許されて国に戻り、呉の打倒を目指して富国強兵に励むのですが、その傍らにはある意味で中国初の軍事参謀ともいうべき范蠡という人物が常について勾践を助け続けました。
 この范蠡が呉を弱体化させるために考えた作戦というのも、「美女を使って呉王夫差を骨抜きにしちゃえ」というもので、夫差の好みを徹底的に調べ上げた挙句に西施という女性を選び出し、夫差の下へ献上します。この策は見事に当たり夫差は西施にメロメロとなって政治が疎かとなっていき、これ以外にも様々な策謀をめぐらした挙句、最終的に越は呉を打ち滅ぼすことに成功しました。
 呉が越によって滅んだ後、西施がどうなったのかについては諸説あります。その美貌が今度は勾践に悪影響を与えるとして送り主の范蠡が即座に殺したという説もあれば、越の覇業達成と共に范蠡は政界を引退し、西施も范蠡と共に余生を過ごしたという説もあり、どっちかと言えば後者の方が真実味あるかなと私は思います。もっとも実在したかどうかも怪しい人物であるのですが。

2、王昭君
 この人は前漢の時代(紀元前1世紀)で、楊貴妃と共にこの四人の中で確実に実在したと言える人物です。
 前漢と対立していた異民族の匈奴から和睦の条件として、皇帝の後宮にいる美女を一人を分けてくれ(節操ないなぁ)と言われたので、当時の皇帝の元帝は折角だから一番ブスを選んでやろうと後宮の美女たちの似顔絵を見比べた上で王昭君を選ぶことにしました。匈奴に送り出す前に元帝は折角だからと王昭君を一度呼び出してみたところ、出てきたのはびっくりする位の美人で思わず、「なんで俺こんな美人選んじゃったんだろう」と洩らしたそうです。
 というのも後宮に入る美女たちは画家に賄賂を贈ってわざと自分を美人にして描かせていたのですが、この王昭君はそうした賄賂を贈っていなかったため実際には物凄い美人なのにブスに描かれてしまい、匈奴の地へと送られることとなってしまったわけです。この悲劇性が彼女を際立たせており、こうして数ある後宮の美女たちの中でも唯一後世に語られる人物にはなれました。

3、貂蝉
 三国志を知っている人間にはお馴染み、後漢時代(紀元後2世紀)の人物です。貂蝉は元々、王允という当時の文官としてはナンバーワンの人物の養女だったのですが、当時の朝廷を専横していた董卓を排除するため自ら敢えて董卓の囲い者となります。ただ董卓の囲い者となる一方、董卓の配下で最強、もとい化け物揃いの三国志においてすら最強であると誰も疑わない呂布という将軍に対して事ある毎に色目を使い、「董卓がいる限り私たちは一緒になれないわ」なんて言って叛意を煽り、最終的に呂布を王允側へ引き込み董卓の暗殺を成功させます。
 結論から述べると彼女は物語の三国志演義の登場人物であって架空の人物ですが、実際の歴史でも董卓の侍女(名前不詳)を巡る争いが呂布と董卓の仲違いの一因になったと書かれてあり、モデルとなる人物は実在したとみられます。なおゲームの「真・三國無双」に貂蝉は皆勤賞で登場してますが、シリーズを重ねるごとに衣装が薄くなってきており、このゲームのお色気路線と共に歩んできた人物と言っていいでしょう。

4、楊貴妃
 この人は唐代(紀元後8世紀)の人物で、平安時代の日本の貴族たちがやたら唐代の歴史や詩を愛好した結果、中国以上に日本人に親しまれるようになった人です。あんま説明は要らないと思いますが、元々は玄宗皇帝の皇太子の夫人でしたがその美貌を目に止めた玄宗が略奪する形で自分の夫人にした挙句、楊貴妃の従弟である楊国忠も棚ぼた的に政治の要職につけてしまいます。
 最初の方はよかったのですが、中国史を代表する妖怪の様な人物である安禄山が楊国忠と次第に対立した挙句に反乱を起こし、一時は首都の長安まで攻め落とすに至ります。もちろん長安が落とされる前に玄宗は脱出していたのですが、逃亡先で官僚たちはそもそもの反乱の原因となったのは楊国忠だとして勝手に殺害し、さらには皇帝もたぶらかされているとして楊貴妃の処刑も上奏されたために玄宗は泣く泣く楊貴妃の処刑します。
 先にも書いた通りに日本人は平安朝に白居易の長恨歌という玄宗と楊貴妃のエピソードを謳った詩集が大流行したため、勝手に楊貴妃を世界三大美人の一人に数えちゃうくらい贔屓にしてます。けどエピソードを見る限り自分からしたらうざい女だなと思うような人物像で、正直好きにはなれません。

 以上がざっと四人について簡単にまとめた内容ですが、西施と貂蝉に関しては架空の人物なれど、王昭君を除いた三人は文字通り「傾国の美女」と言っていいほど国家の趨勢に大きく影響を与えております。翻って日本の歴史だとこれほど美貌によって国に影響を与えた美女というのは架空のエピソードでも存在しておらず、そういう点で中国はなんでもスケールが大きい国だと思わせられます。
 そんな日本の美女とくると有名なのは「戦国三大美人」のお市、茶々(=淀君)、細川ガラシャですが、お市は確かに美女だったとよく書かれていますが残り二人はそんなに激しい美女エピソードは聞かず、その流転ぶりによるエピソードでのし上がってきただけではないかと内心考えてます。むしろエピソード的に面白いのとなると、「とわずがたり」の作者の後深草院二条じゃないか、っていうか際立ち過ぎていると思います。なんつっても、後の南北朝対立の源流となる後深草天皇と亀山天皇というビッグ2との関係を赤裸々に書いてて、「とわずがたり」の内容を読んだ際に私は本気でのけぞりました。