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2013年4月10日水曜日

サムスンは何故躍進したのか

 先日に「サムスンの歴史」という記事を書きましたが今日はこの記事に続く形で、サムスンがどうして日系家電メーカーを上回るほどの成長を果たすことが出来たのか、その経営的要因を私の分析で以って紹介します。

 まず現在の消費者向け家電市場の状況について簡単に述べますが、日系メーカーに関してはパナソニック、ソニー、シャープと名立たる大企業が空前の赤字を記録するほど不振を極める一方、サムスンはスマートフォンのGaraxyシリーズが大ヒットしたことから世界のスマートフォン市場シェアでトップを握り、全体業績でも過去最高利益を記録するなど絶好調もいいところです。ただサムスンは今でこそブランド力で日系メーカーを上回る(上海の家電小売店のブースの大きさではアップル>サムスン>ソニー)実力を身につけましたが、1990年代までは安かろう、悪かろうと見られるメーカー、さらに言えば日系メーカーのダウングレードという見られ方が長らくされておりました。

   半導体事業で一躍世界メーカーに

 そんなサムスンが世界で一躍知名度を高めるきっかけとなったのは、もはやお家芸と言ってもよい半導体(DRAM)製造でした。1977年に市場に参入してから猛烈な投資を行って先行していた日系メーカーをあっという間に追いつき、1990年代においては世界市場で大きなシェアを握ります。このサムスンの半導体事業においては日系メーカーからのヘッドハンティング、要するに技術を保有する人材を囲い込んでその技術を奪った、卑怯だなどという主張がたまに、っていうか頻繁に見られます。実際私もほんの一端ではありますが半導体産業に関わった時期があってこの時代のことをよく知っている人から、某日系メーカー名の社員が土日の韓国アルバイト(技術指導)に明け暮れていたということを聞いておりますが、これを以ってサムスンが卑怯であるとはあまり感じません。むしろそうやって社員を流出させた点や、機密保持契約をしっかりと行っていたのかという点で日系メーカーに隙があったと考えるべきだと思います。まぁ後の祭りなんだけどね。

 そんな話は置いといて、半導体事業の成功によってサムスンは一躍その名を世界に轟かせましたが、コンシューマー家電ではまだまだ格下扱いを受けておりました。それらの評価が切り替わるのは2000年代に入ってからだったように私は記憶しますが、日系メーカーが強かった先進国市場ではなく、中国やインドといった発展途上国市場から徐々にシェアを広げブランド力を高めていきます。何故サムスンが発展途上国市場で受け入れられたのかというと、日系メーカーに比べて価格を抑え現地の人でも手が出しやすい商品を販売していったことが大きく、その商品開発においては「リバース・エンジニアリング」という手法が効果を発揮したと多方面から指摘されておりますが、

   リバース・エンジニアリング

 知ってる人には早いですがサムスンは韓国の水原(スウォン)市に研究開発所を設けているのですが、ここは別名「水原解体工場」とも呼ばれています。何故そんな異名があるのかというとこの研究開発所で行われていることは本当に他社製商品の解体に次ぐ解体で、部品を一点一点調べてどのような構造、機能を持っているかを徹底的に分析し、どれだけ安価な部品で代替できるか、より効率的に組み立てられるかを調べるそうです。かのi-Phoneも恐らくここで徹底的にバラバラにされてGaraxyシリーズも生まれた事でしょうが、それまでに一体何台のi-Phoneが犠牲になったのだろう( ´ー`)
 このサムスンのリバース・エンジニアリングというモデルですが、言ってしまえば過去の松下電器とやってることは同じです。他社が魅力的な新商品を開発して市場に発表するや、より安価だったり性能が少し上だったりする商品を出すことで一番おいしい消費者層を奪うという二番手商法で、これが「i-Phoneは欲しいんだけど、高くて買えないから似たようなのでいいや」という発展途上国市場で大いに受けました。また解体作業を通してサムスン自体の技術力も向上していき、その後のブランド力アップにもつながっていきます。

   徹底した現地マーケティング

 こうしたリバース・エンジニアリングモデルに加えサムスンの経営で特筆すべき点は、その徹底した現地マーケティングにあります。サムスンは毎年社員から募集を募って各地域にマーケティング調査要員を置いているのですが、そのやり方というのも「年間給与をこれまで通りに払いつつ、1年間全く仕事をさせずに現地で生活させる」という、日本の会社じゃ多分思いつかないような方法を採っております。これで調査員となった社員は本当に1年間何してもいいし、家族と滞在国で好き勝手過ごすのもアリであれば、地元の大学に入って現地の言葉を学ぶのだってOKです。ただし一つだけ厳しい条件があり、現地法人などにいるサムスン社員とは一切接触してはならないこととなっております。これは言葉などが出来る現地社員に頼らせず、部屋探しから行政手続きまで全部一人でやらなければならない状況に追い込むためと言われています。

 調査員は1年、場合によっては2年経った後に本社に現地向け商品企画案を出すよう義務付けられているのですが、これらの企画案から生まれた商品は正直に言って非常にユニークなものが多いです。私が知っているのは3種類ですがそれらを全部挙げると以下の通りです。
  1. 鍵付き冷蔵庫(インド)
  2. 音楽プレイヤー付き洗濯機(インドネシア)
  3. メッカの方向がわかり、礼拝の時間を知らせるアプリが標準搭載された携帯電話(中東)
 一つずつ詳しく解説すると、1番目はインドでは家の中に忍び込み冷蔵庫の中身を盗難する人が多くてそれの防止用として大ヒット。2番目についてはインドネシアでは選択をするのは基本家政婦で、これらの人は貧困層出身が多く娯楽と言ったら歌うことしかなく、洗濯中にも音楽鳴らして歌えるということでこれまた大ヒット。3番目に関しては言わずもがななので省略します。
 これらの商品というか機能は日本にいたらまず気が付かず、現地で生活した者じゃないと出てこない発想と言えるでしょう。3番目に関してこれは友人の証言ですが、サムスンは中東地域に調査員を派遣するに当たり、まずその調査員をイスラム教に改宗させたそうです。徹底的に現地に溶け込ませるという狙いもあるでしょうが、改宗によってその調査員はイスラムコミュニティに入り込むことが出来、現地の人脈作りにおいて大いに効果を発揮したと言われております。

 かねがねブログでも書いておりますが、日系家電メーカーはこのマーケティングという面で非常に拙いです。よく前職でも同僚と話しておりましたが、日本で売れた物を自信満々にそのまま中国市場に投入してくることが多く、一体その自信はどこから湧いてくるのかといつもみんなで不思議がってました。また以前に某家電メーカー大手の知り合いにマーケティングが足りていないと指摘すると、「うちの会社でもマーケティングの重要性は認識しているつもりだが、マーケティングを行うだけの資金的余力がない」と答えられ、この時は私もマジで怒りました。
 というのも上記のようなサムスンのやり方であれば300万円もあれば十分で、下手したら現地に留学している日本人留学生に100万円くらいお小遣い上げて報告書を書かせたってもいいのです。それすらもやらずに弱音を吐くというのはさすがに問題だと、ちょっと厳しく叱りました。

 とまぁ初めてこのブログで中見出しつけたりするなど長々と書きましたが、まだいくらか書ききれていない点があるので、続きはまた次回に書きます。先に触りだけ書くと、日系メーカーにはどうあがいても越えられない「国内競争」という壁があるのですが、それをサムスンは既に越えているという話です。

  参考文献
・サムスンの戦略的マネジメント 片山修 PHPビジネス新書 2011年

2013年4月9日火曜日

中国における環境問題、感染病に関する報道

 気づいている人もいるかもしれませんが、この頃ブログの背景イメージがコロコロ変わっております。色々試しているんだけど、どれもしっくりこないというか納得いかないというか。昔の無地の方がいいって人がいれば、ぜひコメントください。自分もそっちのがいいのかなぁとか悩んでて……。
 話は本題に入りますが、中国の赤い水が話題になっているそうです。

豚にアヒル、鶏…大量死にも「安全宣言」の中国地方当局へ不信と不安高まる(産経新聞)

 上記のニュース、というか産経はこういうのを欠かさずに報じてくるなぁとか思うんですが、このところ起きている環境関連の事件がまとめられており、その中の一つに川が赤く変色してその水を呑んだ鶏が次々と死んだ例が報じられています。
 私の中で赤い水と来ると「SIREN」というゲームに出てくる、飲んだらゾンビみたいに不死になる赤い水が真っ先に思い浮かぶのですがそれは置いといて、この問題では「小豆だって煮れば水は赤くなるだろ」という緊張感の欠片もない発言をした地方の環境保護局長が更迭されたそうです。なんでここで小豆が出てくるのかこの人の思考はよくわかりませんが、この辺の報道に関して少し思うところがあります。

 言わずもがなですが中国は日々、厳しい報道規制が置かれている国です。中央政治界の政治家スキャンダルなんて書いたらNYタイムスの記者みたいに嫌がらせさせられるし、台湾などの報道においても「台湾政府」と書いたら即アウトです。
 しかし近年は少し事情が変わったというか、私が思うに2分野に関しては報道の自由が高まってきております。その2分野というのはもったいぶらずに言うと、環境分野と感染病分野です。前者は上記の「赤い水」事件に代表されるもので、後者はこちらも今が旬な「鳥インフルエンザ」がその代表格でしょう。

 この2分野とも、海外メディアだろうが国内メディアだろうが好きに書いていいし、対応が遅れていたら小豆発言で更迭された局長のように自由に批判しても許されます(さすがに中央批判までは許されないが)。実際に私も中国にいた際にはこの辺の問題の記事を書いてましたが特におとがめは受けず、また地元の新聞も、ほかの分野で規制が多いこともあるせいかやけに精力的に環境問題を多く取り上げていました。

 一体何故この2分野で比較的自由な報道が許されるのかというと、やはり民意が大きいと思います。どちらも一般市民が強い関心を持つ分野で、変な対応を採ったり放置したりしようものならリアルに暴動が起こります。確か去年も環境基準を満たさないのに化学工場の無理矢理建設しようとしたら反対運動が起こって取りやめになることもありましたが、中国政府もこの辺の事情を理解して中央批判にならない限りは自由な報道を認めているように思えます。

 またこちらは感染病分野に関してですが、2002年に中国でおこったSARSの感染拡大が一つの潮目となった気がします。この時はガチで中国政府は感染地域や治療状況などと言った情報を隠蔽したことから国内外で激しい批判を受けましたが、中国政府自身もかえって情報隠蔽したことによって被害を広げたと認識している節があり、これ以降は鳥インフルエンザに限らず新型インフルエンザなどの情報はまだ率先して自分から発表するようになるなど日本人として言わせてもらうと常識的な対応を取るようになってきました。

 希望的観測ですが、今後も中国国内の報道の自由はまだまだ時間はかかりますが、徐々に広がっていくと思います。なんでもかんでも自由でオープン過ぎるというのはまた問題な気がしますが、この流れがもうしばらく続いてほしいというのが私個人の願いです。

  おまけ
 最近朝日新聞読んでますが、総理就任前はあんだけ叩いていたくせに安倍首相への批判がこのところ鈍くなってきています。批判しろというつもりはありませんがちょっとこの心変わりは激しすぎるんじゃないかとツッコミたいです。それと安倍首相は折角なんだし、ココイチとでもコラボして「安倍総理の3000円カツカレー」とかいう商品を売り出したら面白い様な気がします。

  おまけ2
 局長が更迭された川の水は赤らしいですが、私に言わせると赤はまだ目に優しいです。川の水が青とか緑の場合は見ていて本当に不安になってきます。めっちゃ鮮明な色していることあるし。

2013年4月8日月曜日

サムスンの歴史

 現在やっている「韓国の近現代史」の連載を始めるに当たって友人に意見を求めたところ、「サムスンを一回取り上げてくれ」というリクエストを受けました。確かに韓国経済を考える上でその代表格であるサムスンは確かに外せない企業なのでよっしゃこいとばかりに引き受けて勉強し始めたのですが、書き始めたらそこそこの分量に行くと思ったのでこの際、連載からは独立して書くことに決めました。そんなわけでまず今日は、これまでにどのような経過をサムスンは辿ってきたのか、その歴史について解説することにします。

 サムスン、といっても実際には企業複合体なのでサムスングループは1938年、李秉喆(イビョンチョル)が大邱市で「三星商会」を設立した頃を創立期としております。李秉喆についてもう少し詳しく書くと、この人は戦前に日本の早稲田大学に留学(病気で中退)しており、二代目の李健熙(イゴンヒ)氏も早稲田大学を卒業、三代目の李在鎔(イ・ジェヨン)氏は慶応大学大学院を出ており、割かし日本の学校と縁があります。個人的には早稲田、慶応ともに派手なPRはしてないような気がしますが。

 話は戻りますが、設立当初の三星商会は雑貨など生活必需品を取り扱っていたようですが日本や中国の戦争が激しくなるなど戦時色が濃くなったことから李秉喆は家族らの避難を優先し、1942年に三星商会の経営を人に任せて疎開します。
 その後、李秉喆は日本の敗戦した後の1948年、ソウルで砂糖など生活必需品を取り扱う総合商社「サムスン物産」を設立し、しばらくは上々の経営が続いていたそうです。しかし1950年から朝鮮戦争が始まると保有していた物資が略奪されたことにより無一文となり、これまた家族を連れて非難するためにかつて三星商会を任していた人物に会うため大邱市へ向かいます。この時、三星商会を任されていた人物は健全な経営を続けており、快く迎え入れると蓄えていた大量の資金を提供して李秉喆に再起を促したそうです。こうした助けもあってサムスン物産は朝鮮戦争後に蘇り、その後は自前で製糖工場や製紙工場を持つなど徐々に財閥化していきます。

 その後、李秉喆は1969年に日本の三洋電気と提携し、テレビの生産や半導体の組み立てを行う合弁会社「サムスンSANYO」を設立すると同時に、現在のサムスングループの中核と言っていい「サムスン電子」を設立します。そして1977年には「韓国半導体」という韓国の半導体メーカー(まんまやん)を買収し、サムスングループ躍進の要因となった半導体の製造事業に着手します。この頃からサムスングループは総合商社から電子メーカー的性格が濃くなっていくわけですが、半導体事業における研究開発には投資を惜しまず、元三洋の井植敏氏によると、「日系メーカーが256KのDRAM開発に着手していた頃、サムスンは1MのDRAMに着手していた」と話しています。

 このように韓国内で押しも押されぬ大企業となったサムスンでしたが、真に国際企業となるのは2代目の李健熙氏が就任してからです。李健熙氏は三男でしたが、その才覚を父親の李秉喆に見込まれたことによって一度は後継者に指名された長男・猛熙氏を押しのけ、1987年に会長に就任します。
 結果的にはこの後継者指名は当たったと言えるでしょう。李健熙氏は会長職に就くと、国内ナンバー1企業となって大企業病に陥っていた社内に対し、「妻と子供以外はすべて変えろ」と、私なら「ペットも?」と言いたくなるような訓令を発して社内改革に手を付けます。李健熙氏は自著でもインタビューでも度々話していますが、米国のスーパーでサムスン製品が埃被っておかれていたのを見てショックを受けたものの、当時のサムスン社内は海外市場なぞまるで気にしておらず、まずは大企業病を克服しなけれならないと相当な危機感を抱いたそうです。そしてこれは私の推測ですが、国内1位では意味がなく、世界市場でシェアをとらなければならないという意識もこの頃にサムスンの中で育ったのでしょう。

 その後、アジア通貨危機の際は一時破綻寸前となるものの、この時に社内合理化を進め機器の去った後のサムスンはそれ以上の競争力を持つに至っています。ただ李健熙氏については2008年に政界などへの不正送金が摘発されて一旦は引退して息子の李在鎔氏にサムスン電子社長職を譲りますが、ここが韓国でよくわからないところなのですが「平昌オリンピック招致のために必要な人材」ってことで李健熙氏は恩赦を受けます。でもって2010年にはまたサムスン電子の会長職に復帰してます。

 ざっとこれまでがサムスンの歴史です。オーナー色の強い会社だからオーナー追ってけばそれなりに見えてくるというのが書き手にとっては書きやすかったです。で、この後の展開ですが、サムスンがどうして日系企業を現状で上回る会社へと成長したのか、その躍進の秘密について私なりの分析を紹介して行こうと思います。

  参考文献
・サムスンの戦略的マネジメント 片山修 PHPビジネス新書 2011年




韓国の近現代史~その九、青瓦台襲撃未遂事件

 前回は韓国軍のベトナム戦争への派兵を取り上げましたが、今日はその派兵を行った朴正煕大統領に対する北朝鮮の暗殺計画、青瓦台襲撃未遂事件を取り上げます。それにしてもこれから数回は全部「暗殺」が主題の記事を書き続けることになるんだろうなぁ。

青瓦台襲撃未遂事件(Wikipedia)

 先に用語を説明すると青瓦台というのは韓国大統領官邸を指します。ここを襲撃すること即ち、大統領暗殺を行うという意味になります。
 この事件は朴正煕が実権を握ってから7年後の1968年に起こったもので、北朝鮮は朴正煕大統領の暗殺を図り暗殺部隊を組織しました。暗殺部隊は31名(実際は40名ほどか)によって組織され、北緯38度の休戦ラインを突破して韓国の領域内に侵入します。しかし侵入してからすぐ、ドジと言ってはなんですが地元に住む韓国市民に偶然見つかってしまい、通報しないように脅迫した後でその韓国市民を放してしまいます。もちろんこの韓国市民は解放後、当局へ北朝鮮軍の侵入を通報しました。

 北朝鮮の暗殺部隊はその後、ソウル市内に侵入して青瓦台を目指しますが、市民の通報を受けて警戒中だった韓国軍に見つかり、市内で銃撃戦を開始します。暗殺部隊は最終的に29人が射殺、1人が自爆、1人が逮捕され、このほかにも数名が北朝鮮へ逃げ帰ったと推測されています。なお逮捕された1人は計画の全貌を放した後で恩赦を受け、その後はソウル市内の教会で牧師となったと言われています。

 この事件では銃撃戦となったことから警官や民間人の間でも死傷者が出てしまい、標的だった朴正煕大統領は北朝鮮の行動に激怒したそうです。そして報復として金日成暗殺計画を作り、後の「シルミド事件」に連なる暗殺部隊を創設することとなります。そんなわけで今回は非常に短く終わりましたが、次回は映画にもなったシルミド事件を取り上げます。

2013年4月7日日曜日

幸福の型、不幸の型

 先月に関西で友人と会った際に印象に残る言葉を二つかけられました。一つは、「なんか前にもまして歩行速度が上がってない?」というもので、ただでさえ早かった私の歩行速度が中国に行ってからさらに上がっていると指摘されました。もう一つがこの記事の主題となりますが、「なんか花園君ってさ、人間の正の感情よりも負の感情に強く関心を示すよね」という言葉でした。

 正の感情、負の感情というのは読んで字の如し、プラスかマイナス、陽か陰かという意味で、前者は人間がうれしい時や喜ぶ時の感情を指すのに対して後者は苦しい時や辛い時などのドロドロした感情を指します。友人が私に言わんとしたことは、私が取り上げる話題には人間は一体いつ、どんな時に苦しさや辛さを感じて、それがどのように嫉妬や怒りなどに発展するのかを追及することが多いのに対し、逆のパターンこと喜びや快の感情に対するメカニズムにはあまり興味を示さないということです。

 なんかこう書くといかにも私が根暗で陰険な人物のように見えてしますが、実際に前の会社で同僚に「花園さんは陽か陰かといったら明らかに陰ですね」とリアルに言われたこともありますが、多少言い訳をするとこれはなにも私に限ったことではないと思う、ってかないはずです。というのも思想家や文豪はその作品においてなにがしかの「悩み」をテーマにすることがある一方、全くないわけではありませんが「人間が何に感動するか」というテーマは前者に比べ少ないと断言できます。人間心理や思想の研究においては基本、悩むということが前提であると少なくとも私はそう思います。

 正の感情より負の感情の方が探究テーマにされやすいということは先ほどの指摘をした友人と一致し、その上で正の感情よりも負の感情の方がバリエーションが多いということもお互いに認めました。バリエーションが多いというのはそのままで、たとえば人間がどんな時に喜ぶのかという場面の数に対し、どんな特に嘆くのかという場面数は多いように思えるという意味なのですが、これについて別の友人に話を振ってみたところ、「ロシアの小説家のトルストイが同じことを言ってるぞ」という指摘を受けました。

 この指摘を受けてから調べてみたところ、私も初めて知ったのですがトルストイの名作の一つである「アンナ・カレーニナ」の中に、「幸福な家庭はみな同じように似ているが、 不幸な家庭は不幸な様も それぞれ違うものだ」という一節があるそうです。改めてこの一節を見てみると実に深く感じられるのですが、この項について後に出てきた友人と軽く議論を交わしたところ、幸福には定型があるという結論に至りました。

 この結論の意味をざっくり説明すると、人間社会というのは知らず知らずというべきか、幸福である条件を作っていってしまうという意味です。たとえば現代日本であれば、そこそこの収入があって、結婚して、健康であって、一流大学を出ていて、一流企業に勤めていて、勤務時間は適度で、子供もまともに育って、などといった幸福の条件というか型が存在し、この型に漏れること=不幸と捉えるようになってしまいます。仮に一つや二つの条件を満たさなくとも幸福感は得られるでしょうが、「完璧な幸福」には至れないでしょう。
 中には「幸福の条件なんて人それぞれが個別に作るものじゃないか」と言う人もいるかもしれません。ただ意志の強い人、周りに影響されない人であればそのような個別の幸福の条件を維持し、独自に幸福感を感じられるでしょうが、圧倒的大多数はそこまで意志が強いとは私には思えず、人間社会が作る幸福の定型に影響されてしまう気がします。

 私が言いたいことを簡単にまとめると、幸福であるとされる状態というのは多くの条件によって非常に限定されてしまう一方、不幸というのは「その他」というくくりとなってしまうため、トルストイが言ったように膨大なパターンになってしまうということです。そのため人間は、自ら幸福の型を作って不幸だと感じる人を量産していると言えるかもしれません。
 なおこの幸福の型ですが、作っているのは人間社会ですが、その中でもメディアが大きな役割を持っているのは言うまでもありません。でもそのメディアはたまにテレビなんかとかで、「苦しい家庭にあっても幸福でいっぱいの家族特集」みたいなのを組んで放送したりします。ですがとあるマンガで、
『たとえばの話だけどさあ』
『「人生はプラスマイナスゼロだ」』
『――って言う奴いるじゃん』
『エリートでも喜んだり悲しんだりするとか』
『幸福な人間もそれ相応の大変な苦労を積み重ねているとか』
『だから人間はみんな平等だって言いたいんだと思うけど』
『でも』
『「人生はプラスマイナスゼロだ」って言う奴は』
『決まってプラスの奴なんだ』
 という、なんて恐ろしいところを突くんだというセリフが載せられております。
 そこそこ有名なのでわかる人にはわかるかもしれませんが、このセリフは「めだかボックス」という漫画に出てくる球磨川禊(くまかわみそぎ)というキャラクターのセリフなのですが、自分も読んでて久々にしびれました

 この「めだかボックス」は既に出ている単行本を漫画喫茶でまだ読み終わってないのですが、ある程度読み終わったらレビューを書いてみるつもり満々です。しかしこういうセリフにいちいち反応するあたり、やはり自分は『陰』の側なのかなぁと認めざるを得ない気がしてきました。

2013年4月6日土曜日

韓国の近現代史~その八、韓国軍のベトナム戦争派兵

 前回では朴正煕政権の行った経済政策、いわゆる「漢江の奇跡」を取り上げましたが、この経済政策では日本を含む海外からの経済支援が非常に重要な要素となりました。朴正煕はこれらの経済支援を受けるため様々な外交を執り行いましたが、その中の一つとして米国向けに、泥沼化していたベトナム戦争へ韓国軍を派兵するという施策があり、この点についてちょっといろいろ言いたいこともあるので解説します。

 朴正煕はクーデターによって実権を掌握した後、1961年に米国へ赴きケネディ大統領と会っております。通説ではこの時の時点で韓国軍をベトナムへ派兵しようかと提案したとされますが、実際に派兵されたのはジョンソン大統領に変わった後の1964年でした。韓国側としてはベトナムに韓国軍を派兵する代わりに米国から資金援助を得ることが目的で、米国側としては戦力というよりも、同盟国から派兵を受けることによって戦争の正当性を高めるということが目的だったと考えられます。

 このような背景で派兵された韓国軍でしたが、ベトナムに到着するやその兵力に比して多大な活躍ぶりをみせたことにより「猛虎部隊」などと呼ばれベトナム軍側からも恐れられたそうです。派兵人数は30万人以上とされ、この兵力規模は米国に次ぐ大兵力であったことから実質主力の一翼をになったと言っても過言ではないでしょう。派兵された韓国軍兵士に対する給与は米国は支払い、また戦争に必要な軍需物資の需要が跳ね上がったことからサムスンは大宇などの韓国財閥もこの時期に急成長を果たしております。

 さてここからが本題になりますが、皆さんはライダイハンという言葉をご存知でしょうか。これはこの時に派兵された韓国軍兵士と現地ベトナム人との混血児のことを指しており、日本の中国における残留孤児問題同様に韓国への帰国、戸籍取得を認めるべきかで現在議論となっております。
 韓国に限るわけではありませんがベトナム戦争中は現地人との混血時出産が相次いだほか、兵士による暴行、強姦事件が相次いでおりました。そして、虐殺事件も同様に相次いでおりました。米軍もソンミ村虐殺事件という有名な虐殺事件を起こしておりますが、韓国軍も下記に列挙する虐殺事件を起こしております。

タイビン村虐殺事件
ゴダイの虐殺
ハミの虐殺
フォンニィ・フォンニャットの虐殺
(すべてWikipediaより、一部にグロテスクな写真が貼られているため閲覧時は注意)

 上記の虐殺事件はどれも無抵抗の村民を韓国軍が一方的に虐殺した事件とされております。これらの行為は米軍の調査によって明るみとなりましたが韓国軍側はゲリラ掃討のための正当な行為であるとして正当化し、当時の韓国軍司令官は現代においても同様の主張を続けていると聞きます。こうした虐殺行為の繰り返しに対し米軍も韓国軍を後方に移す措置などを、実行したかどうかはわかりませんが検討したとされます。

 これらの韓国軍の虐殺行為は長い間知られておりませんでしたが、1999年に韓国の新聞「ハンギョレ」が大きく報道したことによって韓国国内にも知られるようになりました。ハンギョレの特集記事は現地で虐殺事件の生存者に対しても取材が行われるなど精力的な報道でしたが、韓国国内では報道に反発する動きもあり、退役軍人らがハンギョレの事務所に乱入し備品を壊すという事件も起きています。なお、あまり言う必要もないでしょうがこれら虐殺の事実が長きにわたって韓国で隠蔽されていたのは朴正煕以降も、韓国では軍事政権が続いていたからです。

 非常に機微な内容なので詳しく述懐しますが、私個人としてはこれらの歴史事実を採り並べて韓国を批判するつもりは毛頭ありません。主張の仕方によっては「韓国は自国の虐殺事件を棚上げしておきながら日本に対して従軍慰安婦問題を主張するなんておかしい」などと言うことも出来るでしょうが、果たしてそういう逆批判をすることによって何か意味があるのかと考えたらあまりないように思います。そして何より、これらベトナム戦争中の虐殺事件について当事者であるベトナムが何か主張するならともかく、第三国である日本が余計な口を突っ込むべきではないでしょう。

 では何故この連載でわざわざ取り上げたのか。それは本当にたった一つの理由からで、もし日本がベトナム戦争中に自衛隊を派兵していたらどうなっていたのかを読者の方にも考えてもらいたかったからです。韓国以外にもオーストラリアやフィリピンなど米国の同盟国はベトナム戦争へ派兵しており、状況によっては日本も派兵していておかしくなかったと私は思います。ではなんで日本は派兵しなかったのかですが、これはなんといっても憲法9条の存在が大きかったからでしょう。
 ただ当時に日本は兵員こそ派兵しなかったものの、沖縄の米軍基地から飛び立った爆撃機はベトナムを何度も空襲しております。そのことに対して日本人は責任感を持てと言うつもりはありませんが、事実として知っておいてもらいたいというのが私の本音です。

「我が闘争」の著作権切れが間近な件

ヒトラー著書の出版禁止、著作権切れ後どうなる(読売新聞)

 ドイツでは出版禁止処分を受けており、日本でも「毛沢東語録」に並んで読書感想文の題材にしようしたら一発アウトなヒトラーの著書「我が闘争」が、もうすぐ著作権切れとなるそうです。著作権切れというと日本では「青空文庫」が有名で、著作権の切れた過去の文豪の作品がフリーで読めますが、「我が闘争」に関しては物が物だけにどうなるかが議論されており、ドイツ本国では今後も出版等を禁止するとの方針を出しているそうです。

 私自身は「我が闘争」を読んだことはありませんが、世界史の資料集に下記のような内容が引用されていたのを色濃く覚えています。
 大衆とは極めて愚鈍な集団であり、時に暴力的ともいえる強い言葉を呼びかけることによって簡単に扇動できる。
ヒトラーが演説に優れていたのは言うまでもなく、私も何度かビデオで見ましたが確かに迫力があって聞く人の心をつかむ能力に長けていたのでしょう。昔に指導を受けたことのある教師などは、ヒトラーという男は確かに問題のある人物ではあるが、あの大衆をまとめる能力については着目する価値があるとかねがね言っておりました。

 ところでこの「我が闘争」、自分も友人からリアルに「もうそろそろ自伝書いたら?」と言われるくらいみょうちきりんな飛んだり跳ねたりの人生を歩んでおりますが、折角書くんだったらこのタイトルをパロディにして「我が逃走」とかいうタイトルで出してみようかな。この手のパロディネタはよく浮かんで来るのですがいくつか挙げると、

・「我が放送」(テレビ会社のPR冊子)
・「我が包装」(製紙会社のPR冊子)
・「我が党争」(政界の暴露本)
・「我が水槽」(アクアリウム本)
・「我が清掃」(お掃除ハウツー本)
・「我が構想」(なんにでもOK)

 こんなことばっか考えてないで、もうちょっと自分の人生見つめ直した方がいいんじゃないかともよく思います。