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2011年2月7日月曜日

昨日の過ごし方

 昨日はまた友人に会うため、朝早くから家を出て上海中心部まで出かけました。すでに上海には何度も行っているし去年は一ヶ月も滞在したのでめぼしい場所はほとんど観光し終わっているのですが、改めて調べて見たところ「新天地」と呼ばれる、外国人向け観光街周辺にある共産党関係の旧跡に行ってなかったことに気がついたので今回その辺を歩いて見ました。

 まず最初に行ったのは新天地のすぐそば、ってか新天地と呼ばれる一画の中にある、陳独秀らが中心となって中国共産党が始めて会合を行った建物でした。入場料はタダで素晴らしいことこの上ないのですが入り口ではX線による手荷物検査が行われるなど通常の博物館として見たらやはり党の建物だということを意識させられるものの、展示内容は初期の中国共産党の動きと上海市の関わりについてパネルで説明されており、展示されている写真には若い頃の毛沢東や周恩来の写真もあってなかなか新鮮でした。
 館内の売店では例の赤い旗やらバッジやらが売っていたのですが、その中には私も以前にほかの土産物屋で購入して日本で見せびらかしては好評を得ていたこんな時計も売っていました。



 通称「毛沢東ウォッチ」と呼ばれるこの代物ですが何がすごいかというと秒針に合わせて左右に手を振るところで、しょうもないと思いつつも意外な発想が受けてか私の友人らにはぜひ譲ってほしいという声が多いものの未だ譲らずに持ち続けております。画像は時計表面が赤いですが、青いバージョンと合わせて私は二つも持っております。
 それにしてもこの時計はこういう共産党関係の施設内で売られているということは、てっきり商魂たくましい連中が勝手に造って売っていると思っていましたがどうやら党公認の代物だったようです。あとこの画像は楽天のサイトから取ってきましたが、楽天もこんなもんまでいちいち輸入して販売するなよとちょっと思います。

 話は戻って昨日の話です。そうして博物館を見終わると中国人の友人と合流し、今度は新天地からやや離れた孫文と周恩来の、それぞれの旧宅跡を尋ねました。このうち孫文の旧宅は入場料がいたので外から見ただけですが、周恩来の方は入場無料でした。両方とも思念路という通り沿いにあるのですが友人曰く、この地域は旧フランス租界で別荘が多い高級住宅地だそうで、言うだけあってレンガや石造りの洋館などおしゃれな建物が立ち並んでいました。
 ちなみに友人は上海に子供の頃からずっと住み続けておりますが、この日に私と来るまで周恩来の邸宅跡が上海にあるとは知らなかったそうです。この邸宅は日中戦争後に国民党と共産党が今後について協議を行った際に周恩来が拠点として使っていた邸宅だそうですが、京都市民もよく京都にこんな史跡があったとは知らなかったとは言うことがありますが、案外世界中どの都市でも似たようなことがあるのかもしれません。

 そんな風にして最後はジーパン一枚買って家路に着いたわけですが、上海に来る際の列車のチケットを買う際にこんなことがありました。
 私が上海に赴く際は高速鉄道に乗っていつも行っているのですが、ほかのチケットと違って高速鉄道においては一部区間で児童券売機が設置されているものの、まだこのような券売機に慣れていない中国人が多いために駅員の販売するチケット売り場に乗客が集中して大混雑しているにもかかわらず、自動券売機の前に列が作られることはほぼありません。私としてはこっちの方がすぐ買えるので重宝しているのですが、昨日私がチケットを買うや後ろから老夫婦が私に話しかけ、同じ上海行きの列車のチケットをどのようにして買えばいいのかと尋ねてきました。

 比較的聞き取りやすい中国語だったのでもしかしたらその老夫婦は北方から来ている旅行者だったかもしれませんが、話が通じやすいのもあって券売機の操作方法を教えて夫婦二枚分のチケットを購入させてあげたところ、発券前に指定座席を見てみると二枚のチケットで座席の位置が大きく離れておりました。
 座席位置は購入時に券売機が自動で決めるのですが、ほかに二人並んで空いている席が少なかったのかばらばらで席が決められていたようです。そこで直前に買った私のチケットを見てみると、やはりというか夫婦の持っているチケットの片方と隣り合った席番号だったので、内容を説明して隣り合って座れるように私のチケットと夫婦の持っている離れている席のチケットを交換してあげました。

 夫婦からはもちろんお礼を言われて、「聞き慣れない発音だけどどこの出身?」と聞かれて「日本人だよ」といって別れましたが、大したことではないもののやらないよりは矢っていいことをしたと思えてなかなか気分よく出発することが出来ました。
 多分どの人間も、自分が他人に対してよいと思われる行動を取った際は多少なりともこの時の私のように気分がよくなったり得意になったりするかと思います。これは子供においてもそうであるために後天的な教育によるものというよりは人間は先天的に他人への協力を喜んで行う面があると私は考えており、そういう意味では性善説を多少は信じていいかなという気がします。

2011年2月5日土曜日

大相撲の八百長問題について

 今日の記事は書こうかどうか少し迷いましたが、書いておくべきだろうと考え書くことにしました。

大相撲 春場所が中止へ 65年ぶり(産経新聞)

 恐らく日本ではこのところのワイドショーはこの相撲界の八百長問題で持ちきりかと思います。前回の野球賭博問題で膿を出し切るといった言っていた傍からまだこのような問題を相撲協会は放置していたなどと考えると、一相撲ファンとしては悲しい限りです。

 さてこの八百長問題ですが現時点では幕内、十両の一部の力士に限って行われていたと報じられているようですが、私個人の意見を述べさせてもらうとこの八百長はとてもそんな小さい身内の話ではなく、もっと広範囲で行われていたように感じます。そう思うのもかねてから相撲の中継を見ていて、場所中の千秋楽を七勝七敗で迎えた力士が最後の取組みで勝ち越しを決めるというパターンが異様に多いように感じていたからです。実際にアメリカの学者がこの件に関して統計を取っていたようで、七勝七敗で迎えた力士が勝ちやすいという有意な勝率結果が出ているそうです

八百長驚かない 7勝7敗力士勝率80%(日刊スポーツ)

 この記事によると過去の対戦成績から出した通常の対戦勝率が48・7%であるのに対し、実際に七勝七敗で迎えた際の取組みの勝率はなんと79・6%に跳ね上がるとして八百長が行われているのではないかと著者は疑義を呈しているそうです。今回の問題を受けてかこの統計が紹介されている本は問い合わせが相次いで早くも増刷がかけられることとなっているそうですが、実際によく調べているもんだという気がします。

 私個人の意見を言わせてもらうと、あらかじめシナリオが立てられているプロレスならともかく見ている観客は真剣勝負をしているものだと思っていた大相撲で八百長が行われていたなど言語道断で、しかも金銭が動いていたとなれば決して許される行為ではありません。これは野球賭博の問題と比べても問題性は劣らず、関わっていた力士はどのような理由があれ全員角界から追放されても仕方がないかと思います。
 その上でこの問題が発覚後、野球賭博のようにヤクザの間では相撲賭博も行われており、その相撲賭博と今回の八百長が何らかの形で関わっていたのではないのかという疑義が一部で呈されておりますが、全く懲りることのなく不祥事の芽を摘み取らなかった今の相撲協会を見ていると私としてもそのようなものがあるのではないかという気がしてきます。どちらにしろ、恐らく今回の不祥事で相撲協会は公益法人資格剥奪はやむを得ないでしょう。

 くれぐれも言っておきますが、私は相撲を愛しております。しかしこう何度も問題を起こして形ばかりの対応策を取ってうやむやにしているようでは、とてもこれ以上応援する気にはなれません。もちろん真面目に取組みを行っている力士らには今後もがんばってもらいたいのですが、こういった通常の感覚では考えられない行為をいつまでも野放しにしている体質では見ている我々としても非常に複雑な気分にさせられます。

 さてここからが今日の記事の本番ですが、私の視点から見て率直に八百長が疑われる力士とそうでない力士をいくつか挙げることにします。
 まずは横綱白鵬ですが、この人は間違いなく八百長はしていないと思います。どの取組みを見ても正攻法とも言うべき勝ち方をしており、去年は歴代二位の63連勝を達成していることから一部で「話題づくりのための出来レース」ではとも囁かれましたが、皮肉にも連勝記録更新を目の前にして稀勢之里に阻まれたあたり、彼自身の不断の努力によってこの偉大な記録が作られたのだということに真実味を持たせる結果となりました。また白鵬についてもう少し付け加えるとテレビで見ていてもあっと言わせるような恐るべき反応速度で取組みで相手を負かしており、とてもじゃないですがあれが八百長による相撲だとは思えない内容です。

 同様に去年引退した朝青龍についても、この人の持ち味も桁違いの反応速度で、特に出足に失敗して相手に一時押し込まれてから巻き返す際の動きの俊敏さは人間離れしており、彼自身の荒々しい取組みぶり(土俵を割っている力士に平気で駄目押しする)などから八百長らしさは全く感じられませんでした。

 朝青龍については現役時、週刊現代に八百長を行っていると報じられ裁判にまでなりましたが、最終的に裁判で記事には信用性がないと判決が下され、発行元の講談社に取り上げられた力士らへ損害賠償が課されました。今こうして八百長が取りざたされてみるとこの週刊現代の記事は方向性はともかくとして取り上げる力士を間違えており、私自身としても朝青龍叩きに便乗していたようなおかしな記事だったなという気がします。ただこの記事が出た際に私は、「取り上げる力士が違うだろ」と周りに言い回っていたのですが、今回の八百長騒ぎが起きる前から私が八百長を強く疑っていた力士がおります。

 その力士についてはまだしっかりとした証拠も出ていないので実名は挙げませんが日本人大関で、これまでに何度も負け越して何度も角番を迎えているものの何故か角番の場所だけは毎回のように勝ち越しを続けて現在もなお大関の地位に就いております。ではその取組みはどうかというとはっきり言って明らかに不自然な動きをしており、対戦相手を含めて見ていて「あれっ?」と思うような動きでいつも勝ち星を得ております。
 さらに場所ごとの勝敗も見て見ると明らかに不自然だと思えるくらいに「八勝七敗」で終えることが多く、同じ大関でも琴欧州などは十勝を上げないとしょっちゅうNHKのアナウンサーや解説者に、「二桁勝利は大関としての義務」だなどと毎場所ではないものの二桁勝利をあげることもあるにもかかわらず批判されるのですが、その日本人大関は実に三年間も二桁勝利をあげていなかったにも関わらず誰にも咎められることはありませんでした。

 実際にある掲示板でここ数年間、ほかの力士を含む七勝七敗で千秋楽を迎えた数人の日本人大関の対戦成績がまとめられておりましたが、見事といっていいくらいに皆勝ち星を挙げて最後の最後で勝ち越しを決めております。ただ二例ほど例外があり、その例外時の対戦相手がどちらも朝青龍で相手となった日本人大関に負け越しを決めさせているのを見ると、先ほどの琴欧州の話といい相撲会は未だに外国人差別を行っているのではないのか、朝青龍叩きはこの八百長問題の延長上にあったのではないかと疑わざるを得ません。それは同時にこの八百長問題は日本人力士の間で広く行われているのではないかという疑念にもつながります。

 ここで書いたことはあくまで私個人の意見で、データ面などはともかくとして推論については各自でご判断ください。
 それにしても野球賭博問題で後がないと言われていただけに、もう相撲界は駄目かもしれません。これは記事にしていませんが先の野球賭博問題では元琴光喜の追放は仕方がないと私も当初は主張しましたが、後になって詳しく調べて見るとどうも追放になった元琴光喜と元大嶽親方は先の理事選で慣例に反して貴乃花親方に投票を行ったことからかねてから目をつけられており、ほかにも野球賭博に関与し、発覚後も関与を隠していた力士がいたにもかかわらずこの二人のみ始めからこの問題にかこつけて追放するという算段があったようです。

 相撲界は何が悪かったのか、何を正せばよかったのかですが、今となってはそれすらも考えることが馬鹿馬鹿しいほどです。

2011年2月4日金曜日

K先生の授業

 昨日書いた「発言に対する制裁」の記事の中で私は、よく日本人は没個性的であまり独自の意見を持たないという風にも言われますがそうではなく、個々人でそれぞれ意見を持っていながらも発言や主張をすると制裁を受けやすい日本の社会性ゆえに日本人はそれをあまり出そうとしないのではという意見を主張しました。私が何故このような考え方を持つに至ったかについて、今日はその理由となったK先生の授業について思い出話をしようと思います。

 K先生というのは私の大学に来ていた外部講師で、関西の私大を中心に結構いろんなところで現在も講義を行っております。詳しい来歴についてはここでは書きませんがとにもかくにも顔が広い人間で、関西の経済学系の教授名を出せば大抵はどんな人物で業績があるかすぐに答えられるほどでした。
 私がK先生の授業を初めて受けたのは二回生の頃でしたが、そのK先生の授業は二コマ続きの計180分授業で、授業時間の長さが嫌われてか私の周りではそれほど一緒に受けようという学生はいませんでした。

 そんなK先生の授業ですが、具体的にどのようなことをしたのかというとまず最初の一コマ目の授業では教科書として指定されている本をいくつかに分割し、担当の学生が割り当てられた箇所をレジメなどを利用して内容を解説します。そしてその解説に対してK先生がいくらかの補足をして一コマ目を終え、続く二コマ目においては解説された箇所に対して授業に参加している学生それぞれが持った感想を発表するというような具合で毎週進行していました。
 この授業で肝心だったのは言うまでもなく二コマ目で、通常意見や感想発表ともなると挙手による指名制なのですがこの授業ではなんと端っこの学生から順番に一人ずつ、完全に強制で何かしら意見を言わされていました。あらかじめ全員発表されるとわかっているのでそれほど熱心でない学生も何かしら言おうと、ほかの人が意見を言っている間に自分の意見を考えさせられて主張させられるような授業でした。

 この意見発表を行う二コマ目ですが、実は当初は私も警戒をしていました。別に何かしら意見を作って発表するのは苦手でもなんでもないのですが教科書を指定してきているのはK先生だし、下手に本に書かれた内容を否定したらあまりいい感情を持たれないだろうと思い、わざわざ喧嘩してまで意見を言う場所ではないと思って当初は当たり障りのない意見をお飾り程度に発表してました。しかしこの授業を二度三度受け続けているうちに、学生が発表する意見に対してK先生が何も言わないことに気づきました。
 学生の意見に対して意見の中に出てきた事項の周辺情報を補足することはあっても、学生の意見それ自身に対しては否定も肯定もK先生は一切していませんでした。授業を受けているうちにこのことに気がついた私は、案外この先生なら何言ったところで許してもらえるかもしれないと思ってその日から本当に思ったこととして、解説の終わった後に下記のような発言を行いました。

「言っては何ですがこの本の作者は悪い人じゃないんだろうけど、なんか考え方に偏りがあるというか主張に現実味がないような気がします」

 もちろんこの日も、K先生は私に対して何も言いませんでした。

 するとこのようなK先生の態度にほかの学生も徐々に気がついてきたのか、私以外にも結構激しい主張をしたりほかの人の意見に対して鋭い質問を行ったりと、段々と授業内で活発な議論が起こるようになって来ました。それこそ最初の授業の方ではせいぜい単位をとるくらいにしかやる気が見えず遅刻も多かったほかの学生も、終盤になってくると「この人はこんな意見を持っていたのか」と思うような面白い意見を出してくるようになったりして、授業後も親交を持つ仲になった学生も何人かおります。

 そんな具合で学期最後の授業を終えて記述式のテスト日、ほかの先生にはしたことはありませんがこのK先生に対しては答案提出後に深々と頭を下げて授業のお礼まで言いました。あとどうでもいいですがこの日このテスト前に教室前で待ってたところ、教室番号の確認のために声をかけてきたのが今も親交が続く一学年下の友人です。あまりに顔が老けてるから最初は年下だと思わなかったし。
 こうしてK先生の最初の授業は終えたのですが、その後単位にはならないとわかりつつも三回生、四回生時にも同じK先生の授業を受け続け、都合三年間もK先生からいろいろ教えを乞いて現在においても時折メールを交換する程度に親交を続けております。授業内容は二回生、三回生時はほとんど同じで四回生時には教科書も変わった事からそれまでと大幅に内容が代わりましたが、授業に参加する学生は私を除いてどれも別々で意見もまた人によって変わるためにそれほど退屈することはありせんでした。

 確か三回生の終わり頃、直接K先生に対してどうしてこのような授業方法を行うのか聞いてみたことがあります。するとK先生は中にはやっぱり生意気だと思う学生の意見もあるそうですがそれを敢えて何も言わずに好きに発言させ続けていると、自然と学生自身が問題に対していろいろ考えるようになって面白い意見を言い出すようになるのだと答えてくれました。このK先生の意見を聞いて私自身も深く納得するとともに、学生から意見を引き出すには沈黙は金なのだななどと考えました。
 それ以降、私もK先生を見習って後輩を指導する際には後輩の出す意見に対してそれが明らかに間違っているとわかっている意見だとしても、最初の段階では強く否定することは控えるようになりました。そうは言っても私はよく人から、「プレッシャーが半端じゃない」、「意見を求められるのが恐い」などと言われてしまいますが。

 ちなみに前ブログの「陽月秘話」における労働関係の話のほとんどはこの時に受けたK先生の授業内容がベースとなっております。今回このK先生の授業のことを書こうと思ったのは日本人が意見を発言することについて思うのを解説するのと同時に、たまたま中国に来る前に四回生時のK先生の授業で一緒だった友人と久しぶりに会話したことがきっかけでした。その友人は控えめに言っても頭の回る友人で、高い志を持てばそれに見合う環境を得、それに見合う友人も得られるのだと考えております。

2011年2月3日木曜日

発言に対する制裁

 私と会った方の私に対する第一印象は十中八九、「大人しそうで真面目そう」という印象でしょう。その一方、私と親しくしている友人に私の人物像を尋ねるとこちらも十中八九、「考え方が突飛でやや過激」というような内容に終始するかと思います。
 私の地の性格はともかく、私の見かけは人に聞くとやはり「大人しそう」に見えるそうです。それだけに知り合ったばかりの人間とは徐々に話をしていく中で、「こんな人だとは思わなかった」と、褒められてるのか貶されているのかよくわからない感想が度々聞かされ、挙句の果てにはインド旅行の際にインド人占い師に、「あなたは見かけで誤解されることが非常に多い」などとお墨付きまでもらう始末です。

 そのため集団の中にいると最初はよく黙ってただ従っているような人間に私は思われるのですが、面従腹背のつもりは始めからないものの空気を敢えて読まずしょっちゅう文句や意見を言うので人によっては次第に煙たがられていきます。ただそれでも日本人は意見をあまりにも言わな過ぎてその価値を落としているとかねてから信じているのもあり、自分が正しいと思ったことについては敢えて発言するように日ごろから心がけています。

 そんな自分と比して、一般の日本人はあまり公に強く意見を主張しない民族だと自分たちでも自認している様に見えます。そういう中で言えば文句の多い私は異端といえば異端でしょうが、ほかの日本人は意見を主張しないものの内心ではきちんと人それぞれ意見を持っているのではないかと私は考えており、意見を言う言わないはその人を取り囲む環境が左右しているだけなのではないかと見ています。
 たまに日本人は意見をあまり主張しないために朱に交われば赤くなる、大きな意見に迎合しやすいなどという意見を聞きますが、私はこれは率直に言って間違いだと思います。あまり引っ張らずに結論を述べると日本人が意見をあまり主張しないのは本人らが意見を持っていないのではなく、意見を主張した際に待ち受ける制裁を強く意識しているからだと私は考えており、これを私は勝手に「二重の暗黙の掟」と読んでおります。

 通常の意味での「暗黙の掟」というのは皆言わずとも認識されている規定やルールのことを指しますが、私の主張する「二重の暗黙の掟」にはこれに加え、何があっても意見を主張せずに暗黙を突き通さねばならないというルール内容を含んでおります。
 一体これはどういうことかというと、今に始まるわけじゃありませんが日本社会は今の自民、民主の政治ともども何事も結論ありきで行動や指針が決められることが多いです。そのため日本で行われる会議は割とあらかじめ決められた結論に対して承認するだけというのが多いのですが、そういった場面で意見を主張するのは基本的に決められた結論に対して反対ということになり、当然結論を考えた人からするとあまり楽しくはなく主張者は目をつけられることになるのが既定でしょう。

 自分がこの日本の会議における問題が相当根が深いなと感じるのは、こういったことが中学高校レベル、場合によっては小学校の学級会レベルでも行われており、新意見を提案すること自体が身の危険を招くと考え、内心では別意見を持っていてもそれが賛同されるか反対されるかは別としても結局その意見を主張せずに押し黙っていたという経験は日本人なら誰もがあると思います。文句言いの私ですらさすがにここはまずいと思って何も言わないことだってあるんだし。

 これは逆を言えば、意見を主張したところで何も制裁が起こらないという安心感さえもてれば日本人は意見を主張するようになるということになります。そんなことが実際に起こるのかと思う方もいるかもしれませんが、私自身も驚きましたがある大学の授業にてそのような場面を目撃した経験があります。その授業については次回から詳しく紹介しようと思いますが、意見を募集する会議などで何も意見が集まらない場合、その会議では発言に対する制裁への恐怖感をほぼ間違いなく会議参加者が持っていると考えていいと思います。その場合会議主催者は意見が集まらないことを会議参加者が何も意見を持っていないと考えるのではなく、サクラでもなんでも使うなりして会議主催者はまずその制裁への恐怖感を取ることを第一に考えるべきでしょう。

残飯について

 先日日本の自給率について記事を書きましたがその中で日本は食べ残しこと食品の廃棄率が高いことに触れ、仮に日本人がすべて食べ残しをなくしたら現時点で自給率は15%ほど上昇し、農水省の目標とする自給率を達成すると記述しました。この食品廃棄こと食品ロスについてですが、聞くところによると日本で一番多くの食べ残しを生んでいるのはほかでもなく結婚式だそうです。

 記憶が曖昧ですが昔テレビか何かで見た統計だと食べ残し量の一位に結婚式が来て、確かその次位に公立学校での給食があったような気がします。何故結婚式が一番食べ残しを生むのかといえばあまり深く考えることではない気もしますがやはりイベントごとであり、足りないよりも余る方がいいということで実際必要量よりも多めに作るのが通常だそうです。また結婚披露宴に限らずこういった催事が行われるホテルは通常でも食品廃棄が多いとも聞きます。

 この残飯について、いい機会なので前に読んだ本で書かれていた内容を一つ紹介します。この話が書かれているのは佐野眞一氏の「新忘れ去られた日本人」で、この本は毎日新聞で佐野氏が連載していた一人一話形式のコラムを集めた本でいろいろと興味深い人物らが載っており、消え行く業界紙の中でただ一人の人間によって編集が続けられていた蒟蒻新聞の話など佐野氏らしい微に入り細に入りな取材が各ルポごとに行われております。その中で私の興味を引いたというか読み終わった後もなんとなく覚え続けた話というのが今日の残飯に関する話で、佐野氏が東京都内の残飯回収業者の方を取材した話です。

 生憎手元に原書もなくその残飯回収業者の方の名前は失念してしまったのですが、佐野氏の取材に対してその業者の方は、

「残飯と一口で言ってもいい残飯と悪い残飯がある。肉類や野菜類まできちんと分けられて捨てられる残飯もあれば宴会で出されていたまま紙などほかのごみと混ぜ合わされて出される残飯もあり、同じ扱いをすることは出来ない」

 基本的に集められた残飯は牛や豚といった家畜の餌として販売されるのですが残飯の種類によってはそうそう満足売ることも出来ず、そういった上でその業者の方は佐野氏によると「皮肉たっぷり」に、ホテルの宴会で騒ぐ若い女性らの裏ではこういった残飯が数多く生まれているなどと話したそうです。

 私は何も残飯をすべて根絶しろとまでは言いませんが、出るものは仕方がないとしてそれを再利用するためには最善を尽くすべきだと思います。それこそちょっとした工夫で家畜用の餌や農場の肥料として使えるのなら、そういった廃棄方法ももう少し検討して見るのも手かもしれません。

2011年2月2日水曜日

中国の歴史参考書に出てくる日本人

 今日は中国の大晦日に当たる日で、先ほどから戦地かと思うくらいあちこちで爆竹の音が鳴り響いております。一応住んでいるのは都市部で規制があるからあまり派手なことは出来ないと中国人らからは聞いてはいるのですが、それでも結構驚くような音が聞こえてきたりして、農村とかだととんでもない量の爆竹を鳴らすそうですから日本人の静かな正月の感覚からすると隔世の感があります。

 すでに私の会社は昨日から正月休みに入っており、昨日はちょっと都市中心部に出かけてバーガーキングで昼食取ったりと優雅に過ごしました。昼食の最中に先日お袋から送ってもらった文芸春秋を読んでいたら隣にいた中国人男女二人組が私を日本人だと思い声をかけてきてしばらく雑談をしましたが、これに限るわけじゃないですが本当に中国語は相手によって通じる通じないがはっきり別れる言語だと感じます。
 その時に話をした相手は私と比較的年も近くしっかりと教育を受けていそうな感じがしてそれほど会話に苦労はしなかったのですが、現在いる会社内だと地方から来ている人もいて、場合によっては私の発音だと全く通じない(聞いてるこっちは多少はわかるが、それでもほとんど聞き取れない)人もおり、特に私は北京で中国語を学んだこともあって南方に属する現在の居住地域だとしょっちゅう、「ごめん、北方語で聞き取り辛い」と言われたりします。こっちに来る前から恐らくこういう事態になるだろうなという気はしてましたが、めげずに南方の発音もしゃべれるようにとまでは行かずとも聞き取れるようになれればとこのところ願ってます。

 そうした個人的な中国事情はさておき、昨日そうやって街中を歩いた際に寄った本屋にて、中国の高校生向け歴史参考書を購入しました。前から中国の歴史教育はどのような内容なのか興味があったのですが、なんかどこいってもおいてある参考書は問題集ばかりで、日本の「日本史 一目でわかる○○解説」見たいな予備校講師が出版しているような項目ごとの解説本をなかなか見つけられずにいたのですが、昨日行った本屋(新華書店)ではうまい具合にさらっとまとめていてくれる解説本を見つけることが出来ました。
 もちろん文芸春秋も読み終わっていない昨日今日で中国語のこの本を読みきることは出来ていないのですが、ちょっと今日紹介がてらにこの参考書に出てくる日本人名だけをちょっと調べて見ました。

 結論を述べるとこの参考書に出てくる日本人名は明治天皇と田中角栄の二人だけでした。明治天皇については明治維新を指導し日本を資本主義、軍事封建的帝国主義の国に変えたと人物だとして、田中角栄については日中国交正常化を実現させた人物で世界とアジアの平和と発展に貢献したと書かれております。
 中国人の明治天皇の評価については以前の陽月秘話の記事でも取り上げましたが、日本人からすれば「神輿の上の人物」であって、ちょっとこの評価は違うんじゃないかなぁとという気はしますが無理もないところで、田中角栄は外交史的には中国にとって出てきてもおかしくはない人物です。逆にこの二人以外でほかに中国が取り上げるべき人物といったら後は昭和天皇とくらいですし、まぁ無難なチョイスなんじゃないかと思います。

 それにしてもこの参考書、教科書は違うのかもしれませんがざらっと見る限りですと日本みたいに昔から現代へ編年体のようにして徐々に教えていくのではなく、なんか時代順序ばらばらでトピックごとに解説がされています。社会主義の発展の順番とか現代の科学技術の進歩、世界情勢の成り立ちなど、出来ることなら歴史の授業風景も直接見て見たいものです。
 あと読んでて気になる点として、西欧人の名前も全部漢字に変えられててなかなか判読し辛いです。折角だからこれも一部紹介すると、

・馬克思=マルクス
・甘地ーガンディー
・猛徳斯鳩=モンテスキュー
・亜力士多徳=アリストテレス
・斯大林=スターリン

 スターリンについては一行目にて、「偉大なマルクス・レーニン主義者」と書かれております。レーニンはスターリンを後継者にしてはならないと遺言していたのを知っての記述なのか編集者に聞いてみたいものです。

2011年2月1日火曜日

書評:日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率

 私は以前のブログの陽月秘話にて度々日本の農業問題を取り上げては現在の自給率をどうにかして向上させなければならないと主張してきましたが、実はそうやって主張をする一方で日本の自給率は本当に問題なのかという疑問が常にもたげていました。一体何故そんな疑問を持ち続けたのかというと一つの原因は堺屋太一氏の主張で、戦後初期に日本は土地という土地でサツマイモを植えていたにもかかわらず食料に不足したのだから国内の作物だけで時給がまかなえるはずもなくどの道輸出に頼らなければならないという主張と、そもそもの自給率の根拠となるカロリーベースという計算方法が信用性を持つのかという疑問があったからです。日本の自給率はカロリーベースで計算されていると聞いていたのですが、詳しい計算方法は知らなかったまでもカロリーで計算するのであれば諸々の条件ですぐ結果は変わるのでは、たとえば野菜などはカロリーが低いですがサツマイモや米だと比較的カロリーが高く、作る作物の種類によって容易に変動しうるのではないかと前々から感じていました。

 こうした疑問にすべて答えてくれたのが、今日紹介する「日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率」という本です。

・日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率(講談社プラスアルファ新書)

 この本は中国に来る前に買って読んできたのですが、なかなかに衝撃的な内容で農業行政に対する価値観を一変させられました。
 まず先ほどの自給率についてですが、著者の浅川氏によると先ほどのカロリーベースで自給率を算出しているのは実は日本だけだそうで、他国は生産額ベースというやり方で自給率を算出しているのですがそれぞれの計算方法をWikipediaから引用すると、

・カロリーベース総合食料自給率
国民1人1日当たりの国内生産カロリー÷国民1人1日当たりの供給カロリー
※なお、国民1人1日当たりの供給カロリーとは国産供給カロリー+輸入供給カロリー+ロス廃棄カロリーの合計である。

・生産額ベース総合食料自給率
国内の食料総生産額÷国内で消費する食料の総生産額
※生産額=価格×生産量で個別の品目の生産額を算出し、足し上げて一国の食料生産額を求める。


 両者を大まかに説明すると、カロリーベースは国内で生産されるカロリーを国民一人が一日に必要なカロリーで割って算出します。生産額ベースは国内で生産される作物の金銭的価値の合計に対し消費される作物の金銭的価値で割るという、いうなれば食料の輸入割合を調べるようなやり方です。
 浅川氏によると、そもそもカロリーベースで自給率を算出する価値はほとんどないそうです。その理由をいくつか挙げると、

・仮に食糧の輸入をすべてストップすれば国内でいくら餓死者が出ようとも自給率は100%になってしまう
・現時点で日本の食料廃棄率は高く、仮に残さず余さず食べて廃棄率を0にすれば日本の自給率は15%前後上昇する(40%→55%)

 上記のような理由に加え、私が懸念したように作る作物の種類によってもカロリーベース自給率は大きく変動するそうです。それこそ現在野菜を作っている土地で米を作れば野菜と米のそもそものカロリー数の違いによって自給率は向上するのですが、農水省は片方では自給率の低さを問題視し対策を主張する一方、自給率を下げかねない減反政策を取っていることを浅川氏は激しく批判しております。その上で浅川氏は農水省が何故日本が世界で唯一カロリーベースで自給率を計算しているかという理由について、敢えて低く見せることで国民を煽り、自給率対策の予算を獲得するためではないかと指摘しています。

 こうした自給率の問題に加えこの本では今話題となっている民主党の農家への個別補償政策も批判しており、日本の農家の大部分は自産自消、つまり自分で作った作物を家族や近所間で消費するだけで市場に出さない農家ばかりでこうした農家に所得を補償しても生産量の向上につながらないばかりか、非効率な経営で所得補償を受ける農家が続出すると市場に流入する作物が増えて価格が下がり、現在利益を上げている経営効率のよい農家や農業法人が赤字化する可能性があるとも述べて批判しています。
 実際に私もこれには思い当たる節があり、私の友人は家が畑と田んぼを持っているのですが米は買うものじゃなくて作るものだと豪語しており、市場へ販売こそしていないもののいろいろ自分ところで作っているそうで、個別所得保障精度が出来るとそうした農家が形ばかり市場に作物を流して補償金を受け取るケースが続出するのではと指摘しております。

 このほか日本の農業についていろいろ書かれていますが全体を通して浅川氏が主張しているのは、農水省は日本の農業のためといいながら無駄な事業に予算を獲得して使用していることへの批判と、日本の農業は一見すると弱い産業と思われがちだが決してそうではないというこの二点にあると私は判断しました。浅川氏によると日本の農業生産額は世界五位で、輸入制限などで保護しようとすればするほど歪んだ構造となるばかりかすでに効率的な経営で利益を上げている農家の所得が今後は増えず、農水省は自給率100%を目指していますが真の食料行政は100%を越えた後に如何に輸出して外貨を稼ぐかで、守ることよりも攻める重要性を何度も説いています。
 また日本は土地が狭く農業には不向きな土地だと思われがちですが浅川氏は日本は南北に長く伸びた国で、南はサトウキビなど熱帯の作物が作れる一方で北はさくらんぼなど寒冷な土地の作物が作れるという利点があるとし、これに私から付け加えると他国と比して日本は圧倒的な水資源があり、耕作地面積では劣るものの決して農業に恵まれていないわけじゃないとも主張しており、真に農業を産業として育てるつもりであれば農作物の輸入開放が必要であるとも述べられております。

 全般的に読んでてなるほどと思うことが多く読んでて非常にためになった一冊ですが、残念というべきか私にはこの本に書かれている事実が本当かどうか確認する術がありません。実際の農家の声を聞いているわけもなく、また他国の農業政策がどのように行われているのか、日本の実態はどうなのかとすべての面において情報が不足しており、この本のほかの人のレビューを見ていても果たしてどちらが正しいものか判断はしかねます。
 ただこうした農業の実態については工業などと比べて日本はどうも議論が一部の間だけで行われているような印象が以前からあり、この本のように曲がりなりにも一つの主張、根拠が外に向けて発信されたという意味では価値が高いと思います。そういう意味では今後農業を考えるためにもいろんな方がこの方面に情報を発信し、公で議論し合う必要性が高いでしょう。その叩き台にする上で浅川氏のこの本は個人的にはお勧めです。

 中途半端な昼寝に加え真冬なのにダニが出てきてかゆくなったため、なんか筆の悪い記事になりました。