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2010年9月8日水曜日

日本ひげヅラ興亡史

市役所が男性職員のひげ禁止 群馬・伊勢崎、「市民に不快感」(産経新聞)
「ひげ」で手当減額…郵便事業会社員が勝訴(スポニチ)

 どちらもちょっと古いニュースですが、閲覧した時からなんとなく気になっていたニュースです。
 内容を簡単に説明すると、最初のニュースはヒゲを生やしていると市民に不快感を与えるという事から、群馬県伊勢崎市にて男性職員にヒゲを生やす事を禁止したというニュースで、もう一つは郵便事業会社にてひげを生やし続けてきた職員に対して手当てを減額したことに対しその職員が裁判で抗議を起こしたところ、結局郵便事業会社が勝訴したというニュースです。

 どちらのニュースを見ても近年の日本社会がひげ面に対して徐々に厳しい目を持ってきたという事をうかがわせる内容なのですが、ここで私が気になったのは一体いつ頃から日本はひげ面に対して厳しくなってきたのかということでした。改めて考えてみるとどうも日本社会ではひげ面に対して流行期と衰退期がちょくちょく起こっているような気がして、その辺をちょっと調べてみたので一つ今日は紹介しようと思います。

 まず日本の歴史スタート地点として飛鳥時代から考えてみたのですが、この時代の人物の肖像画で残っているもので代表的なものとなるとまず聖徳太子が挙がってきます。その一万円札にもなった聖徳太子の肖像画ではまるで中世の中国人貴族かのように鼻下と顎にそこそこのひげを蓄えた姿で描かれていますが、この肖像画自体がいつ頃に描かれたのかはっきりせず、私見ですが絵の特徴から言っても奈良時代っぽい感じなのでどちらかといえば奈良時代の風俗が影響しているかと思われます。

 ではその奈良時代はどうなのかというとこの頃は中国の影響が非常に強かったために、僧を除くとこの時代の人物の肖像画は(大抵がその後の時代に描かれているものの)やっぱり中国人貴族風なひげが目立ちます。平安時代も概ねこの流れの延長にあって藤原道長を始めとした貴族たちはそのままなひげで描かれていますが、平安時代から出現した武士によって初めてこの流れにストップがかかります。

 武士の中でも棟梁とされる平清盛を始めとした出自の者達はやっぱりまだ貴族風のひげで描かれていますが、生粋の武士とも言うべき地方豪族たちは見かけにも顎ひげが徐々に濃く描かれるようになり、鎌倉時代を通して武士らは貴族たちと比べて荒々しさを感じさせるひげになり、鎌倉時代末期ともなるとついにはこの流れが貴族にまで影響したのか後醍醐天皇は長くて濃い顎ひげを蓄えた姿で描かれております。まぁこの人は例外扱いすべきなのだろうが。

 この後時代は室町、そして戦国時代へと移り変わっていきますがこの頃になると風俗史などについても史料上でも言及されるようになり、武将たる者ひげがなくてどうする的な風潮が流行っていたとはっきりと言及され、元々ひげが薄かった豊臣秀吉は熊の毛で作った付け髭を付けていたという記述まで出てくるようになります。

 そんな男のステイタスと一時なったひげですが、不思議な事に次の江戸時代になると途端に肖像画から消えてしまいます。この突然のひげの消失についてはあるエピソードがあり、余りの出世の速さから徳川家康のご落胤ではないかと噂された初期徳川幕府ブレーンの土井利勝がある日突然ひげを剃って登城してきたのを周りが見て、「あの土井様が剃ったのだから……」と、いかにも日本人的右に倣え思考で一斉にひげが剃られるようになったと「落穂集」に記されております。
 これが本当かどうかまではわかりませんが、徳川将軍も三代家光まではひげがあるのに四代家綱からはこれがすっかりなくなり、暴れん坊将軍と言われた吉宗ですらつるっとした顔で描かれてます。ただこれにはもう一つきっかけがあったとして、四代家綱がある年に「大ひげ禁止令」といってひげを生やしすぎると処罰するという法令を出しているようです。実際にどれほど取り締まられたかまでは分かりませんが。

 そんな江戸時代が過ぎて明治時代に入ると、戦国時代さながらにまたも濃いひげの連中が続出するようになります。これの発端はほぼ間違いなく大久保利通を始めとした明治初期に欧米を視察した政府要人らで、ドイツでプロイセン宰相のビスマルクに心酔した彼らが西洋人に倣ってこぞってひげを生やすようになったことがきっかけでしょう。ただ確か榎本武明も早くからひげを蓄えていたと聞きますし、昔も今も西洋人のファッションに合わせようとするのは日本人の性なのかもしれません。

 この明治以降の濃いひげはその後も主に軍人らの間で続き、おそらく日本海海戦を指揮した東郷平八郎の影響もあって海軍ではいわゆるカイゼルひげを生やす人物が、私も以前に取り上げた木村昌福を始めとして昭和期にも見受けられます。
 その濃いひげからの転換期はやはり太平洋戦争での敗戦で、戦後は建前上は軍人がいなくなった上に先ほども言った通りに政治家もめっきりひげを生やさなくなり、平成に入った今では中には「不潔」とまで言われる始末です。

 私としてはここで書いていったように、ひげとか髪型なんていうものは長い目で見るとちょくちょく流行り廃りがあって生やすか生やさないかにこだわる事自体が馬鹿馬鹿しいと考えております。なもんだからさすがに全く手入れせず、感染症を起こしかねないくらいに不衛生に伸ばしっぱなしであれば話は別ですが、私はひげが濃い人に対しても特に悪い印象を覚える事はありません。むしろ最初のニュースでの群馬県伊勢崎市の例などを見ると帝政ロシア時代のひげ税のような印象を覚え、職員のひげをいちいち管理する前にもっとほかにやることあるんじゃないのという気を覚えます。
 ただもし住民票を取りにでも市役所に行ったら三国志の関羽みたいな立派なひげを生やした職員が窓口に座っていて、突然「ジャーンジャーン」って放送が鳴ったら「げえっ」とか言ってしまうかもしれませんが。それはそれで楽しそうだけど。

 最後に近年の日本人でベストオブひげ面を挙げるとしたら、すでに剃ってしまいましたが巨人の小笠原道大選手の日ハム時代のひげ面が一番かっこよかったと思います。小笠原選手は余りにもひげの印象が強かったもんだから、巨人移籍時にひげを剃ったら「誰?」って思ってしまったくらいだし。

2010年9月6日月曜日

私の保有するHard Rock CafeのTシャツ



 以前に書いた「かつて呼ばれた私の異名」の記事の中で、「ミスターHard Rock」と呼ばれていたということを書きました。この異名は私が全世界に展開している「Hard Rock Cafe」というレストランが販売しているTシャツを夏場はそれこそ毎日着ていることから呼ばれるようになった異名なのですが、では実際にどれだけ私がこのHard Rock CafeのTシャツを持っているか、具体的に調べてみました。その結果は以下の通りです。

上野(日本)
バンコク(タイ)×2枚
バリ(インドネシア)×2枚
マルタ(マルタ)
コペンハーゲン(デンマーク)
コナ(ハワイ)
ドバイ(ドバイ)
バルセロナ(スペイン)
アテネ(ギリシャ)
エジンバラ(イギリス)
カイロ(エジプト)
ミュンヘン(ドイツ)
ハイデルベルグ(ドイツ)
ザルツブルグ(ドイツ)
リスボン(ポルトガル)
メルボルン(オーストラリア)……これだけTシャツではなくセーター

  パチ物
イスタンブール(トルコ)
上海(中国)

 以上のように、正規品で18枚、パチ物を含めると20枚になります。
 確かイタリアのローマと韓国ソウルのもあったような気がしますけど、あまりにも量が多いせいか今回の調査(タンスの捜索)では見つかりませんでした。

 パチ物については結構世界各地で作られているようで、元々シンプルなデザインのために上記の上海、イスタンブールのTシャツも本物だと言い張れば見た人は信じると思います。ちなみに中国では北京に正規店が一軒あり、留学中に私も中心部からえらく外れた場所だったのでバスを何度も乗り継いで行って二着買って来たのですが、二着とも友人へのお土産に使用したために現在私の手元には残っていません。あと日本は上野駅以外にも大坂にもHard Rock Caféがあると聞きますが、こちらは京都時代には何故か行きませんでした。上野のも去年にようやく買ったばかりだし。

 これらHard Rock CaféのTシャツはすべて旅行狂いのうちのお袋が仕入れてきたものですが、改めて国名を見てみると本当にいろんな所に行っているんだなと思うと共に、この世代は本当に体力余ってるなという気がします。また明日から台湾に行くそうだし。

2010年9月5日日曜日

小売業での主役交代について

 この頃市井で気になっている事として、電器販売店のデパート化があります。一番デパート化が激しいのはヨドバシカメラを始めとした都市圏の巨大電器販売店で、全国規模でも石丸電気やヤマダ電機などもこの類に属します。このデパート化というのはどういう意味かというと、単純に専門とする営業品目以外にも幅広く商品を扱うようになってくるという事です。

 近年、大丸や三越、伊勢丹といった老舗のデパートらはどこも営業が苦しくて店舗の閉店が相次いでおり、私も一時期、といっても入って買い物をした事はそんなに多くないですが、京都の真ん中にあって街の大きなベンチマークとしてあった阪急デパート四条河原町店が先日に閉店したというニュースは正直にショックを覚えました。ちなみに京都市内でいえばそれ以前に京都駅前の近鉄百貨店も閉店しており、私が始めて京都に居を構えた頃と比べると随分と姿を変えているような気がします。さすがに大丸は居続けていますが。

 話は戻って電器店のデパート化についてですが、具体的な例を挙げるとヨドバシカメラ秋葉原店が一番分かりやすいです。秋葉原という場所はそれまで電気街口方面の賑わいに対して駅の反対側にある中欧改札口方面は控えめな場所であったのですが、こっち側にヨドバシカメラが新たな店舗を作ってから人の移動も徐々に変わり、現在に至っては電気街口に勝るとも劣らない人の入りとなっています。
 ではそれだけ人の流れを変えたヨドバシカメラ秋葉原店の中身はどうなっているかというと、ほとんどの階には通常通りのパソコンや家電といった商品が置かれているのですが上位階に行くと本屋や飲食店のテナントが入っており、そのほかの階にも旅行者向けのスーツケースやスポーツ用自転車などと、何で電器店にこんなものがと思わせられる商品が数多く置かれております。

 これはなにも秋葉原に限らず同じヨドバシカメラでは大坂の梅田店もほぼ同じような感じでしたし、また同じく都市圏に主に進出しているビックカメラでもいろんな物が売られています。さらにヨドバシカメラもビックカメラもこのところ店舗進出が相次いでいますから、今後もこの傾向に拍車がかかるだろうと予想できます。
 これに対して全国の主に郊外に店舗を出しているヤマダ電機や石丸電気はどうかというと、こちらもおおよそ電器店には似つかわしくない商品が置かれているのがこのところ目立ち、試しにヤマダ電機の通販用ホームページを見てみたら「ブランド時計」、「花、酒」といった商品分類がされています。

 ここでそもそものデパートの定義とその成り立ちについて考えてみましょう。
 デパートは「そこに行けば何でも買える物がある」と言われた様に、分野にとらわれない多品種の商品を扱っている販売店を指していると一般的には言われております。そんなデパートの成り立ちはというと大正期に先ほど挙げた老舗デパート店が出来始めたのが日本での成り立ちと言われ、これら老舗デパート店の本業は大丸や伊勢丹、三越など元々は呉服屋でした。その後阪急や阪神、近鉄など鉄道会社もデパート業に参入して大体ここまでが老舗デパートと呼ばれる区切りですが、その後バブル期にはダイエー、イオン、イトーヨーカドーといった企業が現れ彼らは老舗デパートと分けるために大型スーパーと呼ばれましたが、衣料品、食料品、雑貨など幅広く商品を扱っている事から広義では大型スーパーも十分にデパートと呼べるかと私は思います。

 一気に流しましたが、こういったデパートの変遷というのはそのまま小売業における主役の変遷ではないかと私は考えており、近年は電器販売店が徐々に主役になりつつあるのではないかというのが私の考えです。簡単にその変遷をまとめると、

  高級衣料品販売業→食料品、日常衣料品販売業→家電販売業
 =老舗デパート店→大型スーパー店→電器販売店

 ではこれから電器販売業の企業が大きくなっていくのかと問われるならば、私は必ずしもそうだとは思いません。元々小売業自体が競争の激しい分野であっていくらでも下克上が起こる業種でありますし、元来薄給激務と言われる職場が近年のワーキングプア問題さながらに飲食業と並んで何かと勤務待遇に問題が多いとよく聞きます。実際に風の噂で小学校時代の同級生がこんな不況期にもかかわらず、四年目でビックカメラを辞めるそうです。

 恐らく今後しばらくは家電販売店の力が増していきどんどんとデパート化していくことでしょうが近年は驚くくらいの早さで勢力図がどんどんと塗り替えられていくので、十年後にはまた別分野の小売店が主導権を握っているかもしれません。
 ただ老舗デパートについて言えば、個人的な体験から言っても今後日本での展開は辛さを増していくだけだと思います。何故そう思うのかというと、私は北京、上海の繁華街(王府井と南京路)をそれぞれ見てきましたが、はっきり言って日本の繁華街と比べても欧米などのブランド店の進出が多く、客層の高級品嗜好も日本とは比べ物にならないと感じました。これは見方を変えると、一時期にあった日本人のブランド狂いも落ち着きを見せて実用嗜好が高まったともいえるので、あながち悪いことではないでしょう。

  おまけ
 郊外系家電屋は親子連れがよく訪れることからこの頃はゲームやおもちゃをどこもよく取り揃えているように感じます。実際に私も先月買った「ランサーエボリューションⅤ」のプラモは石丸電器で購入しましたが、模型屋自体が少なくなってきているこの世の中なのでこれはこれでありかと……。

  おまけ2
 京都時代に私が一番通ったのはアルバイト先に近い近鉄百貨店で、よくバイト帰りにテナントで入っている本屋に寄っていました。ただ四条にある大丸について言うと私の通っていた大学によく短期バイト募集をしていたので、何度か応募して物産展の補助スタッフをやってました。物産展があるたびによく出入りはしていましたが、まさか中国に一年間留学して帰ってきてからまた応募した際、大丸の担当の人が電話口で私のことを覚えていたのはちょっと驚きました(;´Д`)

2010年9月4日土曜日

阿波踊りに人生を賭した家老

 阿波踊りと言えば徳島県の名物として全国的にも有名な踊りですが、その起源については確証がないものの江戸時代初期、豊臣秀吉の片腕であった蜂須賀正勝の息子、蜂須賀家政が開いた徳島藩の時代に成立したと言われております。阿波踊りは成立した当初から徳島藩内で大いに親しまれたものの、年を追って熱狂さを帯びてきたために暴動につながらないように徳島藩では藩内の武士に対しては外に出ず、屋敷内で踊るようにと布令を出していました。
 しかし十九世紀のある年、この禁令を破ってまで阿波踊りを踊った武士がいました。その武士の名は蜂須賀直孝といって、名前からも分かるとおりに藩主蜂須賀一族に連なる家老職にある人物でした。

 この蜂須賀直孝は家老という要職にありながら藩の命令を無視して群衆に混じり、阿波踊りに興じたのですが、家老であったゆえに顔がすぐに割れて連行されてしまってそのまま座敷牢へと入れられることとなりました。しかし直孝はこれに全く懲りてなかったのか、なんとその一年後の阿波踊りシーズンに入るや座敷牢を抜け出し、再び群集に混じって阿波踊りに興じたそうです。
 この直孝の二度の重大な法令違反には藩主もさすがに激怒し、参勤交代から戻るや直孝を追放したうえで改易(後に養子による相続は認めている)という厳罰で以って処分しています。

 この話は実業之日本社から出ている、大石慎三郎氏監修の「江戸大名 知れば知るほど」に載せられている話ですが、数ある載せられている話の中でも特に印象に残ったエピソードです。徳島の人にとって阿波踊りはなくてはならないものとよく聞きますが、わざわざ家老職を捨ててまでも踊りたいと思った人がいたとは驚くと共に非常に面白いです。

 ちなみに以前に私は阿波踊りのある徳島県出身の友人、よさこい踊りのある高知県出身の友人がいましたが、彼らに双方の踊りについて感想を求めると、

徳島「(よさこい踊りは)あんなん、ただ動きまわっとるだけの下品な踊りやろが (#゚Д゚)」
高知「(阿波踊りは)あんなん、スローすぎて止まっとるやろが(#゚Д゚)」

 やはりというかなんとなくそういう気がしてましたが、お互いに自分の踊りにプライドがあるらしくてあまり徳島の人と高知の人は引き合わせない方がいいとこの時実感しました。なお高知の友人によると、高知ではよさこい踊りからちょうど一ヵ月に中絶手術が集中するそうです(/ω\)

2010年9月3日金曜日

死刑は犯罪抑止につながるか

 前回、「刑法は何故必要なのか」の記事にて私は大雑把な刑法の必要性、意義についてあくまで私なりに説明しましたが、今回はその中で取り上げた「犯罪抑止力」が死刑にもあるのかどうかについて議論をしたいと思っております。結論から言えば、私は死刑にはあまり犯罪抑止力は期待できないと考えています。

 まずはおさらいですが、犯罪抑止力というのはそもそもどういった概念なのかを説明します。これは簡単に言えば犯罪に対して刑法によってリスク意識を持たせる概念で、犯罪によって得られる利益に対して捕縛された場合に受ける刑罰を意識させる事で迂闊に犯罪に走らせないようにするという考え方です。死刑でこれを説明するのは非常に簡単で、いくら殺したいほど憎い人間がいたとしても実際に殺人を犯したら死刑になる可能性があり、命惜しさに実際に殺人には踏み切らない……という風に死刑には犯罪抑止力があると言われます。

 確かに誰だって自分の命は惜しいですしわざわざ死刑にされる可能性がある行為なんて誰も率先して取らないだろうと思いますが、悲しい事にこれがまるきり通用しない人間は存在すると言わざるを得ません。それはどういった人間かというと単純に自暴自棄になった人間の事で、代表的な例はかつての池田小連続殺傷事件を引き起こした犯人の宅間守で、最近だと秋葉原連続殺傷事件を起こした加藤智大など、どうせ自分も死ぬつもりだからと割り切った人たちです。これらの事件に限らず近年の通り魔事件では犯人らが一様に、「自分が死刑になるためにやった」などと、本心かどうかまでは分かりませんが自分一人では死に切れないから死刑を自殺の手段として期待するかのような動機を語る人間が増えております。
 こうした死刑を覚悟して自暴自棄に殺人を犯す人間らには、残念ながら「死刑になるかも」という犯罪抑止力が働く事はまず考えられません。

 また現在の日本の死刑判決には永山則夫事件以降に作られた暗黙の条件があり、例外が全くないわけではありませんが二人以上の殺人にしか適用されないとされています。そのため下衆な言い方になってしまいますが、一人までなら死刑にならないとたかを括る人間が現れかねないのではと私はかねてから考えています。ただこの点については近年厳罰化の流があり、先ほどの永山条件はなくなって今後は一人の殺人容疑に対しても動機によっては死刑判決が下りるようになるのではないかと見ています。

 そして最後、果たして殺人を犯す人間はその殺人行為の際、「もしかしたら死刑になるかも」と考えるのかという点が疑問です。よっぽど冷徹な殺人者でない限りは人間は殺人を行う際には頭がいっぱいになるとされ、まともな思考は殆んど働かないと聞きます。それこそ「罪と罰」のラスコーリニコフじゃないですがあらかじめ計画していた殺人を実行している際に誰かに目撃され、咄嗟に口封じとばかりにその目撃者も殺してしまうことも十分に考えられ、こうした点を考慮するにつけて死刑はそれほど犯罪抑止力にならないのではと私は考えるわけです。

 では死刑はあまり犯罪抑止に効果がないのだから廃止すべきなのか。これだとあまりにも結論が早すぎると思うのですが、死刑存廃議論だと真面目にここまでで議論を終えて廃止すべきだという意見を言う人が数多く見受けられます。特に法家に。
 そういうわけで次回は、死刑を一種の社会的報復としてみる観点からその必要性について私の意見を紹介しようと思います。

2010年9月2日木曜日

上野動物園で見た外人

 ちょっと今日は時間がないので、この前行った上野動物園の話をします。

 八月の夏休みの最中、私はかねてから行きたかった上野動物園に行ってきました。何故上野動物園に行きたかったかというと、単純にこのところでかい動物を見ていなかったので無性に見に行きたかったからです。一緒に行ったのはうちの親父で、いい年した大の大人二人で辺りを気にすることなく堂々と入園して行きました。

 さて上野動物園というとこれまでの目玉動物となると中国最強の輸出兵器だったパンダなのですが、長らく上野動物園で活躍してきたパンダは数年前に死去しており、ある意味福田康夫政権の最大の功績ともいえる中国からのパンダレンタル(レンタル料年間一億円。けどそれに勝る経済効果があると私は信じている。)も現在着々と準備が進んではおりますがまだ上野にまではまだ届いていません。それでは空いたパンダの檻は今どうなっていたのかというと、なんとパンダはパンダでもレッサーパンダが入っておりました。レッサーパンダもかわいいけど、シャレで置くというのもなぁ……。ちなみにレッサーパンダは今のパンダが見つかるまではパンダと呼ばれていて、今のパンダが見つかってからレッサー(劣る)パンダと呼ばれるようになったと聞いた事があります。

 今年の夏は統計上でも最も暑い夏となっただけあって親父といったその日もシャレにならないくらい暑く、動物達も見た目にも暑くて辛そうでした。猿山では子供の猿はまだ動き回っていたものの大人の猿は日陰でじっとしており、キリンもなんかだれた感じでした。まぁ見た目が元々だれた感じだけど。

 その中でちょっと面白かった事が一つあり、上野公園でおなじみの蓮の葉でいっぱいに覆われた池を渡る橋の上を歩いていると、金髪の外人の姉さん二人組が向こうから歩いてきました。蓮の葉っぱを見ながら彼女等は英語で、

「まるで傘みたい(´∀`*)ウフフ」
「トトロだー!(゚∀゚)」
「キャー!(*´∀`*)」

 ってな会話してました。多分、トトロが葉っぱを傘にするシーンを見ての発言だと思います。
 なんていうか、見ていてこっちも和みました。

2010年9月1日水曜日

刑法は何故必要なのか

 ちょっとこれからまたややこしい関係の記事をしばらく投下して行こうかと思います。その第一発目として今日は、刑法の必要性について私の知る限りで解説します。前もって断っておくと私の専門は法学ではないので専門的知識を持った方からすると何だこれはと思う事も書いてしまうかもしれませんが、出来れば暖かい目でこんな考えを持つ素人がいるのだな程度に流していただければ助かります。

 刑法が何故必要なのか、恐らくこう問われると大半の方は「犯罪を抑止するのに必要だから」と答えるかと思います。この答えの意味を詳しく説明すると、例えば他人から一万円を盗んで警察に捕まると罰金を課されたり、前科がつくなどしてリスクに対して得られる金額が少ないと感じて悪い気が起こらないようにさせる。そういう風に刑法というものを犯罪行為に対するリスクとして意識させる事で犯罪を未然に防ぐ効果のことを「犯罪抑止力」と呼びます。
 私なんか専門が社会学なだけに人間というのは八割方打算的に行動すると考えておりますが、この犯罪抑止力なんかもまさにそのような考え方で刑法というものを規定しているように思えます。

 こうした一般的な犯罪抑止力という考え方に対し、刑法というものは無限の復讐を止める手段という考え方を以前に聞いた事があります。こちらはあまり一般的な考え方ではないと思うので詳しく解説しておくと、日本ではちょっと想像し辛いのですが中東の国では文字通り、「七代に渡って祟る」という概念があるそうです。
 なんでもある中東の国の中にある部族では伝統的に自分から数えて七世代上までの先祖の出自や人生などを覚えさせる風習があり、この七世代の祖先のうち誰かが殺害でもされていれば、その殺害した一族に対して復讐を行わなければならないという価値観まであるそうです。何処の国かまでははっきり覚えていませんが(確かトルクメニスタン)、それがために旧ソ連が侵攻した際には兵士達は一様に顔を隠して復讐の対象とならないようにしたそうです。

 こうした風習がどう刑法に関わってくるかですが、皆さんも子供の頃に経験があるかと思いますが、友達から小突かれてお返しとばかりに小突いたら、「お前のが俺より痛かったぞ」と言ってまた小突かれて、「今のはやりすぎだぞ」といってまた小突き返したりと。
 復讐、特に殺人ではこのループに陥りやすく、先ほどのある部族の例だと五世代上の先祖が誰かに殺されている一方で三世代上の先祖は誰かが殺している場合、その人間はある一族を復讐の対象とする一方で別の一族から復讐の対象になっているという事になります。またここまで極端でなくとも、親が殺されたからその殺害者を復讐して殺した場合、今度はその殺害した相手の子供に命を狙われる……そんな無限パターンもあったりするので、昔の中国の権力者なんかはよく三族皆殺しをして復讐の根を絶とうとしていました。

 そのため江戸幕府では「仇討ちは一代まで」として、親がなんらかの理由で殺害された場合はその殺害者に対して子が仇討ちをする権利が認められ、殺害者を斬り殺しても罪には問われませんでした(逆に返り討ちにあった場合でも、親共々子も殺した殺害者はその殺人については罪に問われない)。その代わり、仇討ちされた者の子は仇討ちを果たした相手を殺害する事は認められず、勝手に仇討ちとばかりに殺害した場合は容赦なく刑罰が課されていたそうです。

 普通に考えたってあちこちで復讐劇が繰り返されていたら殺伐として、お世辞にも住み易い社会とは言えないでしょう。そのため日本に限らず多くの社会では復讐に対して一定の制限をかけ、最終的には現在の日本を始めとした法治社会のようにいくら親類が殺されたとしても私的な復讐は認められず、裁判を通じて課される刑罰へ手段を統一していく事になりました。こうした背景から以前にあるコラムニストが、刑法というのは個人から復讐権を奪う概念であって、過度な報復となっては良くないが最低限犯罪被害者の溜飲を下げさせる効果がなくてはならないと主張しているのを見たことがあります。

 復讐を行った所で必ずしも気持ちが晴れるわけではないと言う人もいますが、それでもないよりはあった方がいいと主張する人もいます。ではどれくらいの報復がそれぞれの犯罪行為に見合うのか、これは時代によって変わったりしますが私はなんだかんだいって、「詐欺をしたら懲役○年」、「窃盗をしたら罰金○万円」というように、刑法で規定された内容にいつの間にかみんな慣らされていくような気がします。もっとも最近は厳罰化機運がどこでも高まっていますが、刑法はただ単に犯罪抑止力だけでなく、無限の報復を防ぐ、被害者の意識を和らげるといった面にも注目し、考えていくのが大事かと思います。