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2009年9月30日水曜日

国民総背番号制の意味

 この記事は以前に書いた「現行年金制度の問題点」の記事の続きです。前回の記事でも書いていますが、私は今後の年金情報の処理やその他の行政上の管理を効率化させるために現行の戸籍制度を廃止し、国民総背番号制を導入するべきだと考えております。

 具体的な話をする前にまず、現在の日本の行政において個人を識別、証明する制度がどれだけあるかを片っ端から挙げてみます。

1、戸籍証(戸籍法-本籍地の自治体)
2、住民票(民法-居住地の自治体)
3、パスポート(旅券法-外務省)
4、年金手帳(年金関連法-厚生省)
5、社会健康保険証(保険関連法-厚生省)
6、自動車運転免許証(道路交通法-居住地の公安委員会)


 ポピュラーなものを挙げていきましたが、ざっと私が思い浮かぶのはこんなものです。括弧の中のハイフンの後は各証明書を管理する行政団体なのですが、見てみれば分かるとおりに縦割り行政よろしく見事にばらばらで、そのためどの証明書も個人を特定して管理するためのものなのですが、たとえ一人の個人がそれらの証明書をすべて持っているとしても、それぞれの管理番号や情報は一切他の証明書と重複しておりません。それは言い換えると、それぞれの行政が全部別々に管理していて情報の共有が全くなされていないということです。

 この各証明書の管理ですが、意外に侮れません。なにせ市単位の地方自治体ともなると数万人の情報を管理することになるのでそれ相応のコストと人員を割かねばならず、しかも最近は住民基本台帳ネットワークの導入によって大分融通が利くようになりましたが、私みたいに関東に住んでいるのに本籍地が大阪の梅田一丁目の人間からすると戸籍の取り寄せが以前は非常に面倒で、パスポートの更新も一苦労でした。

 ここで私が考える国民総背番号制の使い方なのですが、私は現時点で、パスポートに記載されているパスポート番号をそのまま国民番号として流用したらどうかと考えております。パスポートは戸籍と照合されることで作られるので、同姓同名だろうと同じ誕生日であろうとほぼ間違いなく個人が混同されることはありません。そのパスポートに記載されているパスポート番号を現在すでにパスポートを発行されている方には流用し、まだ発行されていない方にはこれから作ることで、そのまま国民番号として使えるのではないかと思います。

 そうして国民すべてを識別する国民番号を作った後、今度はその番号を他の証明書番号にも徐々に統一していきます。それこそ運転免許証番号から社会保険証番号なども元パスポート番号に徐々に更新していき、最終的には番号一つで他の管理団体や証明書をすぐに照合できるような体制に整えられればと考えています。
 もちろんそこまで統一されたら他人の国民番号を利用して不正を働く者や、プライバシーの暴露などといった事件が起こるのではないかと心配に思われる方もいるでしょう。しかしここで私が強調しておきたいのは、国民番号それ自体が個人の証明になるわけではなく、あくまで各証明書の分別、管理に使われるというだけで、あくまで個人や身分を証明するのはそれぞれの証明書であって、この国民番号というのはいわばそれに付随する付箋のような扱い方というのが私の案です。

 ではどのように使うのかというと、例えばパスポートの作成申請においては従来通りに居住自治体から住民票を発行し、パスポート発行事務所に届け出ます。住民票を受け取ったパスポート発行事務所はその住民票に記載されている国民番号から自治体に個人の照合を行い、また照合を受ける自治体も連絡された国民番号からすぐに対応が出来る……という具合になるんじゃないかと、実際の業務に携わったことないから断言できませんけど。
 また社会保険などについては引越しなどによる住民票の移動があっても国民番号で照合が取れるので、以前の住所と異なっているために年金の照合が出来ないというケースはまず防止することが出来ますし、また突然交通事故にあっても運転免許証を携帯していれば社会保険証の番号をすぐに照合でき、病院での業務も効率化できるのではないかと思います。

 という具合に、私は国民番号の導入によって得られるメリットは大きいのではないかと考えております。もっともあくまでこれらは素人の勝手な構想なので実態とはかけ離れていたり、また私の予期していないデメリットも多く存在することが予想されるのでもっと議論は深める必要があると考えており、出来ることなら専門家などからも意見を聞いてみたいところです。
 さてそういうわけであれこれいろんな証明書について語ってきましたが、実はさっきから戸籍についてはあまり語っていません。理由はもちろん私がこの戸籍制度を廃止するべきだと考えているからで、結論を言えば戸籍というものをこの際、住民票と原則セットにするべきだと考えております。またも長くなってしまったので、続きは次回に。

東海村臨界事故について

 わざわざ私が書くまでもないのですがせっかくの機会ですし、あまり事実関係を知らない方もおられるかもしれないので念のために書いておくことにします。

東海村JCO臨界事故(ウィキペディア)

 十年前の今日九月三十日、茨城県の東海村にて核原料のウラン濃縮作業中に放射性物質であるウラン溶液に臨界反応が起こり、世界でも稀に見る形の原子力事故が日本で起こりました。この事件は原子力発電の原料となる濃縮ウラン溶液を製造していた私企業のJCOが呆れるまでに杜撰な管理をしていたことにより起こり、最終的に東海村の発生現場付近で大きな汚染こそ起こらなかったものの、事故発生時に現場で作業していた三人の作業員が被爆し、うち二人の方が亡くなられました。

 この事故については他のサイトでも詳しく解説されているので、もしあまりこの事故について詳細をまだ知らないという方は是非ご自分で調べてみてください。特に私が一番知ってもらいたいのは、亡くなられた二人の被爆者のその後の治療過程です。

東海村で起こった事故は今考えても恐ろしい(Power2ch)

 事故の内容についてそこそこ詳しく議論が行われているのは上記のサイトですが、真面目な話、サイト内に非常に生々しい画像も掲載されているので心臓の弱い方や免疫のない方は見ない方がよいです。
 簡単にその被爆者の方の経過について説明させていただくと、事故発生当時でこそまだ自分で会話できるなど医師も拍子抜けするほどだったのですが、その後徐々に体中の機能が低下していき、二名とも事故発生後一年を待たずに亡くなられてしまいました。またこの過程で医師や看護婦は、激痛に苦しみつつも周囲の医療機器によって生きながらえさせられている患者に対し果たして治療を続けるべきなのかどうか、自分たちの治療行為は正しいのかと何度も自問したそうです。言うなれば、安楽死をさせるべきだったのかという問いをしているのですが、正直な思いを言えば、私はこのケースにおいては安楽死を早くに認めるべきだったのではないかと思わずにはいられません。もっとも、もし自分が治療担当者であれば決断は出来なかったでしょうが。

 原子力発電、核兵器を考える上で、この東海村の事故は最低限持たねばならない知識だと私は考えております。

2009年9月29日火曜日

長崎市長射殺事件の高裁判決について

 最近は少なくなっていた頭痛が今日また再発して現在ひぃひぃ言っている状態なので、またも軽く流せるニュースネタです。本当は今日あたり、はらくくって戸籍廃止について語りたかったのですが。

長崎市長射殺 2審は無期 死刑破棄「金目的でない」 福岡高裁判決(Yahooニュース)

 リンクに貼ったニュースは2007年に起きた、選挙活動中に射殺された元長崎市長の伊藤一長氏の殺害事件の裁判において、一審の死刑判決が福岡高裁にて破棄され改めて犯人に無期懲役刑が判決されたことを報じるニュースです。

 この事件を簡単に解説すると、元暴力団員の犯人である城尾被告は市側に公共事業の発注などの件が思い通りに行かなかったことから市側を恨み、その私怨から2007年に選挙中のため街頭で演説中の伊藤氏を公然の中で殺害したという事件です。もっともこの犯人の殺害動機についてはウィキペディアにも書いてある通りに、あくまで犯人が自供した内容であって必ずしも真実である保障はありません。
 この事件は当初よりその殺害の方法や被害者の役職などから政治テロと見られ真実を究明する場である裁判もかねてより注目されており、第一審ではこうした背景が影響されたかはわかりませんが、殺害人数が一人にも関わらず極刑である死刑が判決されました(死刑判決には複数人の殺害が一つの基準となっている)。

 それが今回、高裁の二審にて一審の死刑判決が破棄されて無期懲役に減刑されたわけですが、私自身は死刑廃立派ではあるものの、今回の判決については率直に言って納得できない点が数多くあります。
 これはNHKの報道内容ですが、松尾裁判長による判決理由によると、

1、殺害数は一人である。
2、政治的目的によるテロではなく、個人の私怨による犯行である。

 といった理由から、極刑は重過ぎるということで無期懲役刑にしたそうです。
 しかしまず一番目の理由についてですが、一人殺せば無期懲役、二人殺せば死刑では、人間の命の重さがなんだかわからなくなるのではと私の友人がよく言っており、私もそんな気がしてきます。

 そして今回私が一番反応した二番目の理由ですが、この松雄裁判長の話を聞くと、何かしらの信条を持った政治的なテロでは重刑も仕方がないが、個人の短絡的な犯行ならそこまで重刑にしなくてもいいという風に私は読み取ったのですが、はっきり言って私はこのような判断は現在の日本において非常に危険なのではないかと咄嗟に考えました。

 こういう風に考えるのも、この前のテレビタックルにて北野たけし氏が政治に期待することとして、教育問題を挙げていたことからでした。北野氏によると、最近は元厚生次官連続殺人事件秋葉原での連続殺傷事件のように、会社や社会で感じた恨みを全然関係ない人に向けて殺害することで発散しようとする事件が続出しており、傍目にもこうした風潮をまずどうにかした方がいいのではないかと話しており、私もなるほどと思わせられたわけです。
 この長崎市長殺害事件も、必ずしも信用できるわけじゃありませんが犯人の供述通りに受け取るのであれば、自治体の長崎市に感じた恨みを直接的に関係のない市長にぶつけるなど、先ほどの例とまるっきり同系統の事件として考えられます。

 私はこのような、世間で感じた恨みを全く関係のない、それも場合によって自分より弱い人間にぶつけようとする風潮は非常に危険で、可能な限り早く根絶する必要があると考えております。そうした意味で、「政治的テロ>私怨による短絡的犯行」という判決理由を出した今回の判決には疑問を感じ、私怨による短絡的犯行もこれからは厳しく裁かれるのだという姿勢こそ世に打ち出すべきだったのではないかと思ったため、この判決に納得いかなかったわけです。

 またこれは補足ですが、政治テロはもちろん許されざる行為だと私は認識していますが、それこそこの前にくたばった瀬島龍三みたいな人間の殺害であれば、その行為は認めないまでもその実行者に対して心情的にはまだ多少の共感を覚えると思います。

2009年9月28日月曜日

現行年金制度の問題点

 個人的に今日一番のニュースは自民党の新総裁が決まったというニュースではなく、私にとってはこれでした。

「つばさ」視聴率は関東で13・8% 朝ドラ史上最低(MSNニュース)

 これまでで最低といっても、13.8%も視聴率あったんだから大したものなのですが、多部ちゃんなだけに私にとってはかなり残念です。といっても、私も平日はほとんど見てなかったのですが(´д`)

 そんな苦しい思いを抱えつつ、書く前からすでにもう胃が痛くなるようなやや面倒な内容を今日は取り上げようと思います。
 現在、日本の国民全体に一体どんなことを政治に期待するかと問えば、まず間違いなく一連の年金問題の解決が第一位に挙がってくるでしょう。前回の衆議院選挙中のどこの調査においてもこの傾向は変わらず、また私自身もこの年金問題は日本の社会保障、官僚利権、財政問題などありとあらゆる傾向の問題を抱えており、現状で最も優先順位の高い内政課題だと考えております。

 そんな年金問題に対して今月発足した民主党政権は、「ミスター年金」こと長妻昭氏を厚生大臣に据えてきました。元はといえばこの年金問題を掘り当て一躍世に知らしめたのはこの長妻氏で、その年金方面の豊富な知識もさることながら公務員のタクシー券問題などを暴いた行動力を考慮すればこの人事は適格この上ないもので、仮にこの長妻氏で年金問題が解決できないのであれば恐らくほかの誰にも解決することはできないだろうと思うほど私も信頼しております。現在の民主党政権がいつまで続くかわかりませんが、私は長妻氏を今回厚生大臣に据えられただけでも前回の選挙で民主党に勝たした価値があると考えております。

 そんな年金問題ですが、具体的にどのような点が問題なのかちょっとその辺を整理してみようと思います。そういうわけで早速リストアップしていきましょう。

   年金問題一覧
1、制度が複雑すぎ、社会労務士しか内容が理解できていない。
2、少子高齢化のため、将来の年金基金破綻が目に見えている。
3、その上若者の加入者が年々減少している。
4、過去の年金記録がめちゃくちゃ。
5、そのため加入者の個人特定ができない。
6、厚生年金と国民年金とで、年金なのに二種類ある。
7、個人事業主が入る国民年金があらゆる点で厚生年金に劣る。
8、年金が受け取れるまでの加入期間が長すぎる。
9、管理する社会保険庁職員の半数以上が以前に不正閲覧をしていた。

 こうして挙げてみると、本当にたくさんあって書いてるこっちが困ってきます。
 このうち割と直接的に問題なのは将来の破綻リスクで、これは言うなれば収入を支出が上回ることで、現在のように年金基金の運用だけではそう遠くない未来に起こることは確実視されています。これについて民主党は年金基金を一旦廃止して一般会計に組み込み、年金の支払いは全額税金から供出する方式を打ち出しております。私としても現状ではそれが一番妥当であると思えるし、今のまま年金基金を社会保険庁に管理させていればわけのわからない年金施設といった箱物の建設などに無駄に使われる恐れがあるのでいい案だと思います。

 この破綻の次に問題性が高いのは、敢えて私が言うなら1、4、5といった、個人の特定に関わるところです。現在の加入者の大半が入っているのは本人と所属する会社が保険料を折半する厚生年金なのですが、これは会社と折半する関係上、事務手続きが非常に複雑となっております。それこそ転職でもしようものなら一旦国民年金になってそれからまた厚生年金に戻したりしなければならず、このややこしい過程で年金の記録が誤入力されたり、下手したら記録そのものが無くなってしまっていたという例が数多く報告されています。
 また転職をせずとも、折半する側の会社側が経営難などから本人に内緒で年金から勝手に離脱させてしまい、本人は払ったつもりだったのに払ってなかったという悲劇までありました。

 それだけにこの個人の特定こそがこの年金問題における最も大きな問題なのですが、100%円満な解決に至らせるには今後どれだけ時間をかけてもまず無理でしょう。また現状の制度に付け焼刃程度の改革を行ったところで今後は歯止めがかかるかというのも疑問で、現に問題が発覚した後の近年でも記録の誤入力例が報告されています。ではどうすればまだマシになるのかといったら、やはり私は国民総背番号制が最も有効な対応策ではないかと考えております。

 この国民総背番号制というのはその名の通りに、国民すべてにその個人を識別する番号を付与して国が管理するシステムで、かつて一度導入が検討されたものの、国の管理が行過ぎるとの国民の反対を受けて流れたことのある制度です。仮にこのシステムがあれば同姓同名、同日の誕生日者であっても識別番号がはっきりと別れることになるので、このシステムで管理されていれば少なくとも年金における個人特定の混乱はこれほどまでに大きくはならなかっただろうと言われています。

 そういうわけで可能ならば私はできる限り早くこのシステムを導入すべきだと考えていますが、導入にあたりひとつの障害があります。障害というほど大きくはないのかもしれませんが、私が睨んでいるそれは戸籍制度です。背番号制度も戸籍制度もどちらも個人の身分、存在を証明する制度です。簡単に言ってしまえば、二つも個人を特定する制度があるとどちらで証明にするか、混乱がおきやしないかということです。
 しかしそれを言ったら住民票、パスポート番号、社会保険番号、運転免許証番号など、どれもサラ金でお金を借りる分には十分すぎるほど個人を証明するものが日本にはあふれています。一体どれを優先すべきなのか、残すべきなのか、はたまた廃止するべきなのか、議論でもしたらいろいろと意見が出てきそうです。

 結論から言えば私は、総背番号制を導入した上で他の身分証明と合わせて一元管理するのが一番望ましいと考えております。例えば国民番号が「AHO110」の人の住民票には、しっかりとその番号が記載されているというような具合で。
 そしてその上で、最早存在価値の低くなった戸籍制度を行政の効率化のために廃止、もしくは改正して住民票と併合するべきではないかと考えています。折りしも現在民主党議員の有志らが戸籍制度の廃止を主張し始め、それについて各所で議論が起きております。

 随分と長い前置きになってしまいましたが、年金における個人特定問題の防止とともに行政効率化のため、何故私が戸籍制度の廃止を主張するかについて次回紹介いたします。

2009年9月27日日曜日

中高一貫教育について思うこと

 以前に私が「内部進学についておもうこと」で取り上げた区立九段中高において高校への内部進学の際、学力の足りないとされる十八人の生徒に他の高校への転学を進めたということを報じた朝日新聞の記事に、その続きとも取れる記事がまたも同じく朝日新聞に載せられておりました。記事の題も「公立中高一貫校は必要か」です。

 記事の内容は教育に関わる三人の識者に対し公立校における中高一貫教育の是非を問うている内容なのですが、結論から言えばつまらなかったです。三人ともどれも似たり寄ったり、というより公立の中高一貫教育が絶対的に必要だという観念が初めからもたれており、九段区立中高の例など現状の中高一貫教育はこれから私立の一貫校と違いをつけていかねばならないという結論でびっくりするくらい一致しています。こんなことくらいなら、誰だって言える気がするのですが(´ー`)y-~~

 その中でも個人的にちょっと私の癇に障ったというか、気になることを言っていたのは渋谷教育学園幕張のの理事長の田村哲夫氏の意見です。この人は開口一番に、「子供が自我を確立する時期は、中学2年から3年にかけての時期だといわれている」とした上で、日本の大半の子供はその多感な時期に高校受験の勉強に追われるのに対し中高一貫校の子供はそうした受験がなく、のびのびとした環境で育つことが出来ると述べています。何故この点に私が反応したのかというと、そのような私立の中高一貫校に進学する子供は小学四年生頃から塾に通わねばならず、多感な時期に受験に追われるという意味では時期が違うだけでそれほど差はないのでは、それどころか遊びたい盛りの小学生の年齢を考えると高校受験時より中学受験時の子供の精神的負担は重いのではないかという気がします。

 かくいう私も何度もこのブログで書いていますが、そんな塾通いを小学校四年生から始めて私立の中高一貫校に進学した口です。はっきりいって中学、高校時代はあまり面白くなく、現在の自分を形作っているのは学外で受けた影響の方が強かったです。
 また私自身がこの中学受験で何が一番嫌だったかといえば、同じ小学校である地元の友達らと別々の中学に進学しなければならないことでした。それこそ小学校に入る前からの幼馴染らと全員別れて全く知り合いのいない中学に進学したようなもので、本当に仲のいい友人らを除くとその後地元との結びつきは随分と薄くなってしまいました。やっぱり小学校から中学校へ上がると周囲を取り巻く環境というものは大きく変わるものですし、できることならそういう場面に昔から気心の知れた者がいてほしかったのが私の本音です。

 この中高一貫教育については私が見ている限りどうも肯定的な意見しか見当たらず、テレビに出てくる塾通いの子供もちゃんとした学校に行く方がいいなど、反対する意見を述べる場面を見ることがありません。しかし私の親戚、知り合いの子供らから直接話を聞くとみんな嫌々塾通いをしており、むしろ「ドラクエをやる時間が欲しい」などという意見ばかり聞こえます。この報道と実情のギャップの差に時々気になるのですが、近年学校法人からの広告料が伸びているという噂を聞くと、なにか関係しているんじゃないかと疑ってしまうわけです。週刊朝日なんて、受験偏差値ランキングでメシ食ってるような雑誌だしなぁ。

2009年9月26日土曜日

片山善博氏について

 ダムのことについて書いたばかりなので、ちょっと関連するかどうかは微妙ですが私が一目置く政治家であり大学教授である片山善博氏について一本記事を書いておきます。

 この片山氏というのは一昨年まで鳥取県知事を二期八年やっており、現在は鳥取大と慶応大の教授をなさっている方です。知事在任中は常に高い支持率を維持し、地方分権派の知事として中央に長く働きかけ続けてその手腕、行動力についてはかねてから高く評価されておりました。

 そんな片山氏を、四年位前の私が初めて知ったのはあるエピソードからでした。
 現在東京と副知事を務める作家の猪瀬直樹氏が自身のエッセイにて、まだ猪瀬氏が若かった頃、本格的に作家として身を立てようと決意したものの先立つものがなく、悩んだ挙句に彼が向かったのはなんと政府系金融機関だったそうです。詳しい名前は失念しましたがそこは中小の企業家向けに起業資金を貸し与える金融機関だったそうで、猪瀬氏はそこの窓口の職員に向かって、

「自分はこれから作家として身を立てていく。ここは起業家に起業資金をくれる場所なのだから、当分生活するだけのお金を自分に貸してくれ」

 はっきり言ってこうして文面にすると、やくざか何かが金をせびっているようにしか見えませんね。実際に猪瀬氏も内心では無理だろうと考えていたそうなのですが、その職員はしばらく席を離れると、わかりましたと言ってなんと本当に猪瀬氏にお金を融通してくれたそうです。そのお金がどこまで役に立ったかまでは分かりませんがその後猪瀬氏は念願かなって作家として生活できようになり、ある日テレビで討論番組を見ているとあの時に何も言わずにお金を貸してくれた職員こと片山氏が、鳥取県知事として出演しているのを見つけてびっくりしたそうです。

 このエピソードだけでも片山氏は相当な人間だと思わせられるのですが、以前に読んだ本人の知事在任中の話として、こんなものもありました。

 なんでも片山氏の知事在任中、鳥取県内のある地域の治水対策のためにダム建設か堤防工事をしなければならない案件が出たそうです。そこで両工事の費用を見積もったところ、ダム建設の方が堤防工事より安いと出てきて、ダムであれば発電も出来るし安いのだからそっちの方が良さそうだとまとまりかけたそうなのですが、片山氏はその出てきた見積もりを見ていてどうもおかしいと感じ、県庁内の担当職員を呼び出してこう言ったそうです。

「今ならまだ怒らないよ」

 こうして書くと、随分と恐ろしい殺し文句に聞こえてきます。多分こんなこと言われたら、身に覚えがあったら大抵は白状してしまうかもしれません。
 そしたら実際にこの時の担当職員は白状し、実はダム建設の見積もり費用は大分以前の基準で出した見積もり費用であって、現在の基準であれば堤防工事の費用を上回ってしまうということを明かしたそうです。それを受けて片山氏は、安くで済ませられるというのならと堤防工事を選んだそうです。

 このエピソードのまとめとして片山氏は、予算一つでもいろいろな思惑の元に方針が歪められることもあり、それを如何に持って行きたい方向に持っていくべきかとしていましたが、このエピソードを聞くと非常にリアリティを感じられます。
 こうしたエピソードから名前を覚え、その後テレビ出演時の片山氏の話を聞くにつけて私は片山氏を現在も高く評価するように至りました。このブログでも何度も書いていますが、私も鳥取の日本海自動車学校で全く不快感を感じることなく自動車免許を取得し、なおかつ境港出身の水木しげる氏のファンということもあって可能ならば今すぐにでも鳥取に住みたいと考えておりましたが、何も元知事にまで肩入れしなくともと思いますが、せっかくなのでこうして記事にまとめておきました。

八ッ場ダム建設問題に対する私の意見 その二

 この記事は前回の「八ッ場ダム建設問題に対する私の意見 その一」の記事の続きで、前回の記事を読んでいない方はまずそちらをご覧になってからこちらの記事をお読みください。
 前回の記事ではダム建設の目的がどうも実情に即していないという点から私はこの八ッ場ダム建設に反対だと主張しましたが、この記事では主に予算面とダム建設による弊害の観点から私が反対する意見を紹介いたします。

 まず予算面についての議論ですが、パッと見で一番わかりやすいため以下の記事から紹介します。

【金曜討論】八ツ場ダム 小渕優子氏、嶋津暉之氏(msnニュース)

 このリンクを張った記事では自民党の小渕優子議員と学者の嶋津暉之氏がそれぞれ八ッ場ダム建設賛成、反対の立場で意見を主張しあっている議論なのですが、比較的争点も整理されていて分かりやすい内容なのでこの問題に興味がある方は是非ご覧になることをお勧めします。

 それでまず小渕氏の建設賛成の意見なのですが、まず治水、水源確保について国交省の主張通りに「今後、気候変動でどうなるかわからない」という曖昧な主張です。確かに小渕氏の言うとおりに将来に起こりうるかもしれない事態に対策を行うのが政治の仕事ですが、大金使う建設計画なのだからせめて根拠となる統計を出してから言ってもらいたいものです。
 そして肝心の予算についてですが、これは言うなれば今中止するのと建設を実行するのではどちらが無駄なのかという議論なのですが、小渕氏はもちろん中止した方が無駄遣いが多くなると主張しており、ちょっと長いですがその辺について全部元の記事から引用させてもらいます。

 --中止した場合、支出した負担金の返還を求める自治体がある
 「利益享受を前提に、これまで6都県が約1980億円を負担してきた。返さなければならないのは当たり前の話。建設継続の場合は、あと、長野原町の生活再建関連費用約770億円とダム本体工事関連費用の約620億円の計1390億円ですむ。7割の工事が終わっているのに、ここで建設中止となると負担金の返還だけでなく、新たな治水整備費用、別の生活再建費用が必要になり、確実に中止した方が費用はかかる」


 この小渕氏の意見に対し建設反対を掲げる嶋津氏の意見は、こちらもまた全文引用させてもらうと、

 --建設を中止した場合、国費支出は増えるのでは
 「国交省の調査で、貯水域周辺の22カ所で地滑りの可能性があるが、うち対策を行うのは3カ所だけ。川原湯地区の上湯原などに住民移転地があるが、この周辺は最大の地滑り危険地域で本当に不安だ。大滝ダム(奈良県・吉野川)では水をため始めた後、大変な地滑りを起こし、38戸が移転、対策費に308億円、工期を10年延長した例がある。また、八ツ場ダムに水をためると、吾妻川沿いの発電所への送水量が減り発電量が減ってしまう。その分を補償するのが『減電補償』で、それに数百億円かかる」

 「さらに、これまで事業費の7割は使っているが、事業全体の進捗(しんちょく)が遅い。3月末時点で、着手は6~8割だが、完成した国道、県道は数%、鉄道は75%。代替地の造成も1割だ。総合すると、ダム本体工事の約620億円以外に1000億円規模の支出増が見込まれる」

 「これらを踏まえたうえで、継続か中止かを検討すると、継続した場合には実際2390億円必要だ。中止した場合には、自治体が負担した利水負担金を返すと仮定して、利水負担金890億円と生活再建関連の770億円の計1660億円が必要となるが、やめた場合のほうがはるかに安上がりだ。よく利水負担金は1460億円といわれるが、その4割(570億円)は国庫補助金であって、これは自治体への返還の対象にはならない」


 さすがにこんな引用だけだと手抜きなので、双方の主張を以下に簡単にまとめておきます。

★小渕氏の主張
・すでに工事進捗は七割も済んでいる。
・今後必要な費用は生活再建関連費の770億円とダム本体工事関連費620億円の計1390億円だけだ。
・中止すると建設費を一部負担してきた6都県に直轄負担金の1980億円を返さないといけない。
・中止の場合、負担金の返還に加え別の治水、生活再建費が必要だ。
・1390億円<1980億円+αで、中止した方がハイコストだ。

☆嶋津氏の主張
・現在事業費予算の七割を使っただけで、工事進捗が七割済んだというわけじゃない。
・実際の進捗具合から、本体工事費用は追加で1000億円以上必要で、継続するのに計2390億円必要。
・中止した場合でも、自治体に返す費用のうち570億円の国庫補助金は返す必要はない。
・そのため、自治体への返還費用合計は1460-570=890億円。
・中止した場合は生活再建費用の770億円と上の返還費用890億円で、計1660億円必要。
・2390億円>1660億円で、工事を継続した方がハイコストだ。

 見てもらえば分かりますが、嶋津氏の費用計算に対して小渕氏の費用計算はなんと言うか非常にアバウトで、私が見る感じでは嶋津氏の主張の方が正しいような気がします。それにしても、生活再建費用はどっちにしろかかるんですね。

 私からこの議論に関連する情報を付け加えると、工事の進捗についてはどうも嶋津氏の主張通りにそれほど進んでいるとは言えないらしく、工程の中で非常に大規模となる底部補強工事がまだ済んでいないそうです。この底部補強というのはダムの水が貯まる箇所の底を水圧に耐えられるように補強する工事なのですが、この工事を実行するためには現在水が流れている川から水をすべて抜かねばならず、お金の方も相応にかかって来るそうです。
 こういう話を聞くと、すでに工事は七割方終わっているというのはどうも冗談にしか聞こえません。第一、日本の行政工事が予算内で完了することなんてほとんどなく、現状での見積もり費用にある程度上乗せをして考えなければならないでしょう。

 そして中止した場合にかかる費用についてですが、これについては一部、費用比較の議論に加えること自体に疑問を思う箇所があります。それはどこかというと、自治体への直轄負担金の返還です。
 返還にかかる負担金の費用額は両者でそれぞれ異なっていますが、私が思うに、この負担金の返還は確かに国の支出で見れば明らかなマイナスですが、何も返したからといって突然空中に消えるお金というわけじゃなくそのまんま自治体にて使えるお金です。目的も用途もよく分からない八ッ場ダムに使われず自治体に返されるのなら社会全体で見ればプラスもマイナスもなく、無駄金のような計算に使うのは不適当なのではないのかと考えています。もっとも30億円も裏金を使っていたことが発覚した千葉県に返還しても、まともに運用されないのではないかという疑念こそありますが。

 こうした予算面からもやはり八ッ場ダム建設は怪しいものなのですが、これに加えて私個人が考えるダム建設の弊害を考えるとなおさらその気持ちが強くなるわけです。何気にダムについては以前に勉強会にも参加したことがあるのですが、どうもいろいろ話を聞いていると、ダムというのはそのその機能以上に環境に与える負荷が非常に大きい代物だそうです。

 まず一番基本的なことですが、ダムというのは作ってしまえば後は半永久的に使えるものではありません。上流から下流へ水を流すという役割上、年月とともにダムの底には土砂が溜まって行き、それとともに治水、発電機能は低下していきます。この土砂を取り除けばもちろん機能はある程度回復するのですが、深い水底にある土砂だけを除去するのは並大抵のことではなくその分の費用をランニングコストと捉えれば、シムシティみたいに安価で無害な発電施設ではありません。ちなみにシムシティで自分はバカスカ原発を作るけど。
 そしてここが肝心ですが、一旦土砂とともに水の流れをせき止めてしまうため、ダムを作ってしまうとほぼ例外なく下流では水中の栄養素が減少してしまいます。それまで均質に保たれていた水中の栄養素がダムの建設によって変化するため川の生態系に与える影響は少なくなく、また川周辺の森林にもあまりよくありません。

 90年代までダムというのは、治水と発電の両方を一挙に行え、かつ公共事業によるバラマキが経済成長のために非常に重要だと考えられた時代ゆえにあちこちで建設が行われてきました。しかしこの八ッ場ダムでも建設に反対する住民がいるように、実態的には建設地から立ち退かねばならない人間もいる上に目には見えない環境への負荷も大きく、決して得るものに対して犠牲が少なくはありませんでした。こうしたダム建設の負の面に初めて社会が目を向けたのは現新党日本代表の田中康夫氏が2000年の長野県知事選に出馬し、当選した際に主張した、「脱ダム宣言」からです。

 現在でこそ私は田中氏の主張にはどうかなぁと思うところもあるのですが、この脱ダム宣言は日本の公共事業、ダム計画を大きく見直す第一歩となった点では田中氏を高く評価しております。そうした影響もあり、あくまで素人の意見として前回の記事と合わせてこの八ッ場ダム建設に対して反対意見を述べた次第です。