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2008年8月7日木曜日

暴走族風大学名

 以前、友人らとチャットをしているときに何故か、「大学名を暴走族風にしてみようぜ」という話になり、早速キーボードの日本語変換の候補に出てくる漢字で、ひたすら有名な大学の名前を暴走族風に変えていきました。

 まず関東の私立大学だと、早稲田はあまりいい候補がでてこずじまいでしたが慶応大学だと「刑殴」になり、明治大学だと「冥痔」と、早速面白いのが出てきました。その後も続いて中央大学を「虫王」、東洋大学を「盗用」、法政大学を「鳳逝」と決まり、極めつけは文字数の多い学習院大学で、「愕臭淫」と、なんか本当に落書きに書かれてそうな名前になってきました。

 舞台は変わって今度は関西私立大学になると、まず同志社大学が「倒死者」というように、後ろの「死者」を使って「導死者」とか「慟死者」といくらでもバリエーションが作れるのですが、アクセントを変えた「怒牛車」というのが一番気に入りました。ライバルの立命館大学は、「立冥館」というお化け屋敷っぽいのになり、関西大学はそのまんま「完債」とかでもまぁまぁ面白いけど、「奸妻」が多分一番面白いでしょう。
 ここでも文字数の多い関西学院大学がいろいろ作れたのですが、関西以外の人のために説明しておくと、「関西学院」というのは「かんせいがくいん」と関西地域では呼ばれており、この読みにあわせて作ると、「官製楽員」とか「閑静楽員」と、楽員だけでいろいろ作れました。

 国公立大学ともなると、シンプルな名前が多いだけになかなか味のあるものが多く作れ、東京大学は「盗凶」などなど作れるのですが、個人的にお気に入りなのは京都大学の「狂徒」です。京大の学生には申し訳ないけど、いい意味でも悪い意味でもこの二文字は京大生をよく言い表していると思う。
 逆にかっこいいので群馬大学なんかは「軍魔」となり、そのまんま群馬の暴走族なんかに使えそうな名前になりました。

 最期に、下ネタですがほとんどいじることなく変えられたのが成城大学と上智大学です。そのまんま同じ音で「性情」、「情痴」となりました。こんなの書いて、学生に恨まれやしないだろうか。

2008年8月6日水曜日

外国人の目から見た原爆

 これは私が中国に留学している際の話ですが、日本人の留学仲間と自室で談笑し、その友人が帰った後に相部屋相手のルーマニア人に先ほどの友人は広島出身だよと教えたところ、
「俺たち、彼の放射能が移って病気とかにならないよな?」
 と、私に聞いてきました。

 このルーマニア人の友人は大学で物理学を専攻しており、ルーマニアにある原子力発電所も学生時代に見学したと言っていました。そんな彼でさえ、広島と長崎は今でも草木も生えない荒涼とした場所で、そこに住んでいる人間は放射能を持っているとと考えていたそうです。ま、後者は冗談で言っていたと思いますけど。
 誤解しないように説明しておきますが、恐らく彼がそんな風に両都市を想像したのは、チェルノブイリの例があるからだったと今は思います。実際にチェルノブイリ発電所の周りは今でも廃墟のまま残され、人も誰も住んでいません。この時の事故でルーマニアでも放射能汚染が確認されており、そういった背景から彼は誤解をしていたのだと思います。

 実際、世界の人たちはやはり原爆や放射能について誤解している人が多いと思います。このルーマニア人の友人のように広島、長崎は二つともたくさんの人口を抱える大都市であることや、植物も真っ当に育つと言うことを話すと驚かれる外国人はたくさんいます。またアメリカ人については、原爆を落とした張本人でもあることから自国の人間に対して原爆の事実を隠そうとしているような気がします。

 というのも、昔にテレビ番組でやっていた内容で、原爆の日にアメリカの中高生が広島に行くという企画があり、「はだしのゲン」の作者である中沢啓治氏から話を聞いたり原爆資料館を訪れると、アメリカ人たちは皆、こんな事実を今まで全く知らなかったと全員が述べ合っていました。さらに同じ番組ではアメリカの原爆に対する報道を取り上げ、戦後に作られた戦争記録映画の原爆投下のシーンの際、B29のパイロットの一人が民間人をたくさん殺すことになるがいいのか、と言うともう一人のパイロットが、
「もう何日も日本語で避難しろと書いたビラを撒いている。それでも残っているやつらが悪い」
 と言い返すシーンが盛り込まれていました。もちろん、ビラを撒いた事実なぞありません。

 思い起こしてみると、私は高校の修学旅行で長崎を訪れた際、実際に被爆者の方から直接話を聞く機会がありました。しかしもうあと数十年もすると、原爆一世にあたる直接の被爆者は寿命の関係でいなくなるでしょう。その後の時代に原爆の悲惨さと事実を伝えるのは、私たちのような直接話を聞いた事のある世代になると考えています。伝えるのは何も日本の子供たちだけでなく、日本ほど原爆教育を受けない外国人にも伝える必要があると、八月六日の今日に思います。

2008年8月5日火曜日

平安最強の奇人、小野篁

 この三日間は心身ともに疲労する記事を書いたので、久々に肩の力の抜ける歴史のはなしを書こうと思います。ちなみに、「竹中平蔵の功罪」の記事は陰陽編二つ合わせて原稿用紙20枚分も書いてたよ……。

 さて皆さん、突然ですがこの和歌をご存知でしょうか?
「わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣り船」
 この和歌は百人一首にも選ばれている、小野篁(おののたかむら)の和歌です。小式部内侍、小野小町の和歌に次いで、百人一首の中で三番目に私が好きな和歌です。

 実はこの和歌が読まれた時、篁はえらい所にいました。何を隠そう当時の罪人の流刑地である隠岐です。
 事の起こりはこうです。篁は遣唐副使、ようするに中国留学団の副団長に指名されたのですが、嫌がって勝手にサボったら嵯峨上皇にめちゃくちゃ怒られて、流刑される羽目となったのです。
 その際に、「こんな遠くに来ちゃったけど、寂しい僕の気持ちを心ある漁師さんは都のあの人(恋人とか家族かな)に伝えておくれよ」、っというのがこの和歌の解釈です。

 ここで終わればただのサボり屋ですが、不思議なことにこの篁はその後許されて都に戻ると順調に出世し、最終的には摂関家以外の人間にとっては宮中の最高位である「参議」に叙位されています。これは一度流刑された人間としては異常な出世です。
 さらに面白いことに、この篁というのは安倍晴明もはだしで逃げ出すくらい、不思議なエピソードの多い人間なのです。

 一番有名なのは、宮中のある貴族が死んで地獄で閻魔様の裁判を受ける事となった時、なんと判事の席には篁が座っており、この貴族は篁が流刑に遭った際に弁護をしていたことを閻魔様に説明し、また甦らせてやってくれと擁護したといいます。閻魔様もそれを聞き入れ、そのままその貴族は蘇生し、事の次第を宮中で篁に尋ねてみると、
「他言無用」
 とだけ言い返されたと言います。

 また、洛中で嵯峨天皇を皮肉る高札が出た際、嵯峨天皇に「お前がやったんじゃね?」っていちゃもんを篁がつけられた際、篁が「やってませんよぉ」と言うと、「じゃ、これ読んでみ」って、「子」の文字をただ12個並べた紙を見せたところ篁は、
「猫の子子猫、獅子の子子獅子」
 と、「子」の文字を「ね」と「こ」と「し」と三種類に読み分け見事な文章を作り、このいちゃもんを打ち負かしたと言うエピソードもあります。これなんかは高校の古典の教科書にもよく載せられている話だと思います。

 ただこの篁ははっきり確証こそありませんが、日本の美人の代名詞でもある小野小町の父親だとも言われています。小野小町もその存在の実証性がはっきりせず、親子そろってミステリアスな一家です。そのミステリアスさを買って、昔に私が書いたSF小説でも一度ご登場を願いました。

2008年8月4日月曜日

竹中平蔵の功罪~陰編~

 今日の記事は前回の、「竹中平蔵の功罪~陽編~」の続編で、「陽編」に対して「陰編」、前回では竹中氏の評価すべき政策について事細かに解説しましたが、本日は逆に非難すべき政策についてまた長々と開設する次第であります。恐らく今回もまたえらく時間と手間がかかるだろうから、現時点でテンションを引き上げるために「アンインストール」という曲を大声で今歌っています。

 この竹中氏への評価については前回でも書いたように、その就任時から現在に至るまで激しく批判され続けています。しかし私の見方からすると、それまでの政治家の誰もできなかった画期的かつ実現性の強い政策を採ったことは高く評価しており、その評価すべき面が世間ではあまり評価されないことに対して、世間の批判はやや一方的過ぎるように感じていました。また竹中氏を批判する言葉についてもただ「格差を広げた」という文言ばかりしか見当たらず、具体的に彼のどんな政策が格差を広げたのかという議論が大半の批判には抜けているように見えました。もちろんしっかりとした論者の場合は具体的な政策や実体などを挙げていますが、そうした批判も含めて全体的には竹中氏個人への批判がやはり過分に強かったように思います。

 ここで言っておきますが、私は決して竹中氏の肩を持つ気はありません。しかし冷静に評価、批判、分析を行うために、感情的とも取れる批判論についてははっきりと私の方からその批判者へと非難させてもらいます。その上で言っておきたいのは、このブログの記事でも敢えて分けたように、評価すべき面と批判すべき面をしっかりと分けて政策を見てください。絶対によくないのは、片面だけを挙げつらうことなのですから。

 少し前置きが長くなりましたが、本題に移ります。単刀直入に言って、私が竹中氏の政策で一番憎んでいるのは医療制度改革です。竹中氏が実質的に経済政策を取り仕切っていた小泉政権時代、国の医療費は一貫して削減の一途をたどりました。その結果、小泉政権が終わってからようやく表面化して来ましたが各医療現場は過重労働や病院経営の悪化など混乱の一途を辿っています。具体的にどんな風に医療費を削減したかと言うと、単純に医師が医療行為を行った際に国が病院や医師に支払う診療報酬の削減が行われてきました。細かくは書きませんが、それまで5千円もらえていた医療処置への報酬が3千円に引き下げられたり、ひどい例などその処置を行うのに必要な薬代の方が報酬を上回るケースなども出てきてしまったそうです。そのような場合だと簡単に想像できますが、その医療処置を行えば行うほど病院は赤字を出すことになります。馬鹿げてますよね。

 また高齢者の患者の自己負担率も徐々に増やして行き、いくつかのメディアでも取り上げられていますが病気になっても病院に払うお金がないために病院に行かず、病気を悪化させる患者も出ているそうです。さらに保険料を払えずに保険証を取り上げられて、今度辺りに書きますが資格証明証を持つ患者も年々増加しております。ついでに補足すると、今話題の後期高齢者保険制度も小泉政権時に成立してます。

 ちょっと外れますが、この医療崩壊の問題は確かに大きな問題ですが、現在の大メディアには批判する資格はないと私は思います。というのも、以前にもちょっと書きましたがこの医療費の削減が行われた2000年代前半は、どの大メディアも少数の医療事故ばかりを大げさにまくし立て、実際に大変な思いで働いている立派な医師については全く取り上げず、さらには日本医師会が削減に反対を表明するのを報道する際も既得権益を守らんがためだというような批判的な報道ばかりしていました。私は大メディアの報道によって、国が医療費を削減しても問題がないような空気があの時代にできていた気がします。

 話は戻りますが、この医療制度改革にはどれほど竹中氏が関わっていたかははっきり分かりませんが、私の予想では大半の面で関わったいたのだと思います。逆に、確実に竹中氏が関わって推し進めた政策と言うのが、彼への批判で最も多い規制緩和政策です。

 この規制緩和政策というのは単純に言って、それまで総量規制といって、免許や許認可を国が管理することによってその業界へ異業種や新規参入の企業を日本は制限してきました。その制限をすべて取っ払うことが簡単に言って規制緩和です。
 この規制緩和によって引き起こされた代表的な社会問題は、タクシーやバスといった交通業界の混乱です。私が2003年から高速バスを頻繁に使うようになって来ましたが、あの頃と比べて現在は非常に高速バスの行き先から運行数まで非常に多様化しました。そうして便利になったと思う一方、現場の運転手のルポを読むたびに素直にその変化を喜ぶことができないでいます。

 ここ数年で、高速バスやタクシーの事故件数が劇的に増加しています。その理由というのも、規制緩和によって新規に参入できる企業が増えたためです。それまで5社だったタクシー会社が20社へと変わると、言うまでもなくタクシーの台数も約4倍へと増えます。ですがタクシーの乗客は増えるわけではないので、これまた簡単な割り算をすると最初の頃と比べてタクシー運転手の収入は4分の1になってしまいます。その結果、今ではタクシー運転手の方々は文字通り朝から晩までタクシーを走らせ、さらに企業間の競争が激しくなり料金も皆で下げあい、下げあった分皆でさらに収入が減るという悪循環に陥っています。文字通り、引いたら負けだが突っ走っても死ぬだけのチキンレースを行っている状況です。

 高速バスにおいても同様で、不眠不休でバスを走らせて起こった衝突事故など、細かいのを挙げたらほぼ毎日起こっていると思います。確かに企業競争は重要ですが、今の交通業界は企業同士で共食いをし合って皆で共倒れしかねないほどにルールなき戦場となっております。しかもなお悪いことに、これは人材派遣業界において顕著ですが、その激しい競争のために法律を破って事業を行う企業も続出しているのに、竹中氏のいた時代はほぼ一貫してそういった法律違反への取締りが黙認に近いくらいに取り締まられなかった時代でした。むしろ、竹中氏とタッグを組んでいた現オリックス会長の宮内義彦による規制改革委員会でそういった法律違反行為が追認されるように緩和が進んでいったように思えます。
 そんな例を一つ挙げると、労働者派遣法の2004年の改正では事実上、ってか私もやってたんだけど、それ以前から行われていた製造現場への労働者の派遣が正式に認められています。同時に、派遣期間の上限もこの時に一年から三年へと延長しています。

 重ねて言いますが、企業の競争は必要です。しかし過当競争になると皆で共倒れして、結局皆で損をしてしまうので、経済には政府が最低限のルールと枠を作る必要があるのです。
 竹中氏は参考文献の「縦並び社会」という本の中のインタビューで過当競争が続くタクシー業界について、「所得は減ったろうが、雇用は増えた」と言って問題がないと主張していますが、やはりこれは間違いでしょう。

 私が竹中氏の政策で疑問に思う最期の政策は、企業買収の法制改正です。これについては専門外であまり詳しくはないのですが、海外企業による日本企業の三角合併が、ライブドア騒動の際は一時施行を延期しましたが、実質的に認められるようになりました。別にM&Aが全部悪いと言うわけではありませんが、アジア通貨危機の先例もあることですし、多少の予防線は必要だと思います。それらを取っ払い、アメリカの企業に城門を開くようなこの行為についてははっきりと批判こそしないまでも、私は疑問に感じました。

 本当はまだいろいろ批判点はあるのですが、彼への批判はそれこそそこら中に溢れているので私がわざわざ書くまでもないでしょう。ですが最期に気になった点として、今回この記事を書くために復習をしていたら意外な事実に気がつきました。その事実と言うのも、よく世間では小泉政権が国民の生活格差を作ったと言われていますが、その格差を生む要因となった政策のほとんどは、なんと小渕政権時に成立しているものが非常に多いのです。

 具体的に挙げていくと、人材派遣業法が現在の形のようにほぼ全業種に渡って原則自由化が認められたのは99年、84年には累進化税率による所得税の限界課税率(所得の高い人間に対して高くかけられる税率の上限のこと)が70%だったのが、99年には37%まで実質半減化されています。
 さらにさらに書くと、これは小渕政権ではなく橋本政権時ですが、98年には姉歯事件を引き起こすきっかけとなった建築審査の民間開放を盛り込んだ建築基準法の改正、期待の整備不良が増加する一因となった航空業界へ新規参入を認める規制緩和も97年に改正されています。

 詳しく調べてみると、竹中氏は小渕政権時の99年にすでに政府の経済問題の諮問機関に委員として入っております。しかし当時からそれほどの影響力があったのか、これら格差を生む原因となった政策にどれほど関わっていたかについてはまだ議論の余地があります。
 しかしそれにしても、これは以前に書いた「小渕元総理の評価」で私は、真に格差を作ったのは小渕政権で、小泉政権は、確かに問題ではあるが格差を放置しただけと書きましたが、改めてこの事実を見返してみると、ますますその思いが強まります。もっとも、これらの問題は時間が経って表面化してきたものばかりですから、退任後に表面化した後期高齢者医療制度のように、これから我々の知らない小泉、竹中時代の改悪が続々と出てくる可能性は高いでしょう。そうなると、竹中氏の業績はこれからどんどんと悪くなって良くなる事は少ないことが予想されます。

 竹中氏への総評として私は、マクロ経済を立て直したのは高く評価できる一方、格差問題に一切対策を打たず放置した、というより助長させたのはやはり許せません。規制改革についても、本来もっと規制緩和が必要なテレビ業界などは改革されず、逆に必要だった場所をどんどん緩和して行ったのも納得がいきません。ですがあの時代に、この竹中氏の力は必要だったと思います。なので願わくば、今後は再登板せずにこのまま表舞台には上がらないことを祈ります。

  参考文献
「悪夢のサイクル」 内橋克人    文芸春秋社 2006年
「縦並び社会」   毎日新聞社会部 毎日新聞社 2006年

2008年8月3日日曜日

内閣支持率調査の読売のやりすぎ

 今日は昨日長々と書いた「竹中平蔵の功罪」の後編を書こうとしていたのですが、緊急に書かなきゃいけない内容が出てきたのと、ちょっと友達と遊びすぎてへとへとな状態なので、短いながらも楽しい統計のトリックと各新聞の性格について書こうと思います。

 いきなり夢のないことを言いますが、日本人というのは統計調査については非常にずさんな民族です。概して、欧州諸国と比べてアジア諸国は歴史的背景などもあると思いますがどこも統計情報を軽視する傾向にあり、日本はまだマシ(中国なんて平気でごまかすし)な方ですが、それでも非常にずさんだと言わざるを得ません。民間団体はもとより国の調査でも信頼度の低いものばかりで、といっても内閣府の調査結果はまだマシなので私もよく使ってるんですが、それでも「あんまり信用できないけど」という前提の下で使用しています。特にひどいのは地方自治体の調査結果で、これなんてほぼ全部信用できません。

 私は調査技術を専門に勉強していたわけではありませんが、そんな素人でもはっきり分かるくらいに日本はいい加減な調査ばかりで、民間団体にいたってはびっくりするような手抜きな調査方法、結果もたくさんあります。それはもちろん、本来はしっかり調査活動をやらねばならないマスコミにも言えることで、特に憲法九条に関する調査に至っては、朝日と読売で毎回10%以上の結果の開きが出てきています。

 そこで今日のお題ですが、先日に福田内閣は内閣改造を行い、今朝の新聞の朝刊にはどこも新たに内閣支持率の調査を行い、その結果を載せていました。しかし、この結果というのも愕然とする……というよりかは爆笑に近い内容のものが、一社だけ混ざっていました。何を隠そう、題にも乗せている読売新聞社です。
 比較対象のデータは読売、朝日、産経、毎日が発表している調査結果で、記事はどこもネットでの記事を根拠にしています。各リンク先は以下の通りです。

・読売新聞:YOMIURI ONLINE
・朝日新聞:asahi.com
・産経新聞:MSN産経ニュース
・毎日新聞:毎日jp

 産経だけは共同通信の調査結果を使っていますが、残りはどうやら自前の調査のようです。調査方法は支持率調査時によく使う、ランダムに電話して聞き取りする調査方法のようです。
 それで早速その調査結果なのですが、以下の通りです。

    支持  不支持 前回調査時の支持率との差
読売:41.0% 47.0% +25ポイント
朝日:24.0% 55.0% ±0ポイント
産経:31.5% 48.1% +4.7ポイント
毎日:25.0% 56.0% + 3ポイント

 見てわかるとおり、読売の調査結果だけあからさまに突出しています。第一、内閣改造をしただけで支持率が25%も急増するわけなんて、普通に考えて有り得ないでしょう。
 それにしても、読売新聞はよくこんな調査結果を載せてきましたね。こんな結果がもし偶然に出たとしても、私なら公表を見送るか、再調査を必ずやらせます。ただ、私の読みとしては敢えて読売はこの結果を、ってか多分支持率を敢えて高くなるような調査を自らして公表したのだと思います。その理由というのも、読売新聞のトップである例のナベツネは、これまでの小泉、安倍政権に対しては苦々しく思い、自民党守旧派の福田政権に対しては逆にえらく親近感を持っているからです。なお小泉、安倍政権の頃は産経がやけに肩を持っていましたけど。

 つまり、福田政権に対してわざと応援や援護射撃をするような目的で、さも支持率が急増したかのような調査をやったのだと思います。ですがさすがにこれだけいびつな結果だと、私みたいに気づく人間も出てくるでしょう。福田政権に対して批判的なスタンスを取っている朝日新聞と、一応右派新聞の系統に入っている産経との差ですらたったの7.5ポイントです。朝日と同じ左派系統の毎日はやっぱり朝日に近い結果だけどそれでも読売みたいに無茶はやっていません。

 そして私自身の今回の内閣改造の感想としましても、ただ派閥のトップを並び立てただけで、これからの若い政治家を育てようという気概は何も感じないし、本当に各省庁の事情に精通しているか怪しい人間ばかりであまり評価していません。まだ能力が伴っているなら年寄りだろうが若手だろうが私も何も言いませんが、財務大臣に伊吹文明って、元財務官僚だからといってこの人が経済政策に対する具体的な提言をしたことってあるんでしょうか。私の聞く限りでは今まで何もありませんでしたよ。同様に、国土交通大臣に谷垣貞一も、恐らく重要ポストに派閥の幹部、って組み合わせだけでついただけでしょう。ついでに言うと、この谷垣は財務大臣時に何かやったことはあったのでしょうか?

 最期にこの支持率の適正な結果はなんなのかという分析をすると、一応どの新聞でも支持率は前回調査時より上がっているので、少なくとも国民は見損なったということはないといえるでしょう。そう考えると、実態に近いのは産経新聞(共同通信の調査)の結果、もしくは産経と朝日の数値の間くらいだと私は考えます。
 ただ私の気になる結果として、産経の調査では挙げていないのですが、麻生太郎氏を幹事長に据えたことに対する調査結果で、読売、朝日、毎日の順番で、「評価する」と答えた率がそれぞれ66%、51%、57%と、どれも50%こそ上回っているものの、思っていた以上に低かったのが気になりました。というのも、福田首相としても今回の改造の目玉として持ってきたにもかかわらず、意外なほどに低かったのではないかと推察します。それこそ、改造全体の評価は低くとも麻生氏の起用については支持が80%ほど行くと踏んでいたのではないでしょうか、改造前の口ぶりとか見ていて感じた私の勝手な予想ですがね。また国民の側としても、無回答を含め約半数が麻生氏の起用を評価していないというこの結果は、人気は人気だけどマスコミで騒がれているほど麻生氏はそこまで強いわけじゃないのではと、これも勝手ながら感じた次第であります。

2008年8月2日土曜日

竹中平蔵の功罪~陽編~

 内閣改造をたびたび行った小泉元首相が唯一、その任期の最初から最期までそばに置いていた人材というのが、今日紹介する竹中平蔵氏です。
 この竹中氏は日本の格差を広げたとして、任期中においても批判を受けることが多い人物でした。ですが結論から言うと、私はあの時代は竹中氏を必要とした時代であり、この人がいなければ恐らく今以上に日本の経済はどん詰まっていたと思います。そこで今回は竹中氏の功罪として、記事を「陰陽」と分け、誉められる点と非難されるべき点をそれぞれ解説します。さし当たって今回は陽編、誉められる点です。

 森政権から小泉政権に移る際、日本の経済政策は大きな転換が行われました。それはほかならず、公共事業の削減です。それまで「景気刺激策」の名の下に、個人消費を増やすために公共事業、言い方を変えれば「ばら撒き財政」が延々と行われてきました。呆れることに、その公共事業は何の効果も示さなかったにもかかわらず、バブル崩壊から十年近く延々と続けられました。

 それに対して総裁選挙前の時点からNOを言い続けたのが小泉氏です。そして実際に首相につくや経済産業大臣に竹中氏を据えて、公共事業費を年々大幅に削減していきました。結果はというと、公共事業に頼ってきた地方の土建屋などが一挙に身代が傾きましたが、少なくとも明らかに余計な支出であったお金は浮きました。
 この公共事業の削減は確かに地方の格差を広げました。特にこれまで地方の経済は、国の公共事業費→土建屋→地方の飲み屋、というようにお金がばら撒かれていたのが、この流れが一気に途絶えてしまったのですからそりゃ地方にとっては痛手でしょう。しかしこのばら撒きによる経済政策というのは、一時的には景気を浮上させるも長期的に見れば何の効果もないことがすでに経済学では常識です。なのでここで公共事業を減らしたのは、まさに英断だったと私は考えています。

 と、これだけ言うと竹中氏がやったのは公共事業の削減だけとばかりに思われるかもしれませんが、実際に彼が行った政策の中心はこれだけではありません。彼が行った政策は、就任当初に言ったこの政策でした。
「三年以内に、銀行の不良債権を半減化する」
 よく巷では「不良債権」という言葉はよく出回っていますが、今までのところこの言葉の中身をきちんと説明できる友人はあまり周りにいなかったので、ちょっくらここで簡単に説明します。

 銀行は基本、事業者にお金を貸して、事業者はその借りたお金で事業を行ってから利益を出し、利息を乗せて銀行に借りたお金を返します。しかしお金を貸りる事業者というのは、毎回必ずしも利益を出すわけではありません。もし利益を出さず、銀行から借りたお金が一千万だったのに赤字で二百万円にまで目減りした場合はどうなるでしょうか。単純に言って、銀行は一千-二百=八百万円分のお金を損したことになります。こんな事業者にお金を貸した担当の銀行員もこれじゃ上司に怒られちゃいますね。

 これはシャレや冗談じゃなくて、ちょっとこの前まではこうした場合に、銀行はその事業者にまた新たにお金を出資していました。何故かというと、そのまま八百万円を損失額として計上するより、せっかくここまで投資しているのだから何とか事業を続けさせ、利益を出させていつかは貸したお金を返してもらおうとか、単純に問題を先送りにしようと事業の継続に必要なお金を新たに出資することが多かったのです。

 特に当時はバブル崩壊から十年くらいたっているにも関わらず、バブル時代になんの打算もないまま銀行からお金を借りて事業を始めた企業がまだ数多く残っており、貸したお金は返ってこないのに事業継続資金を延々と銀行は貸し続け、ただ銀行の金を食うだけの事業者がたくさんいました。このような出資事業や、バブル時代に一億円だったのに五千万まで目減りした土地などの不動産を不良債権と言います。

 もちろん、こうした金食い虫に対してみんなもいつかはなんとかしないととは思ってはいたものの、日本人お得意の「問題の先送り」によってこうした不良債権はずっと残っていました。すでに説明した通り不良債権を維持するためにもお金は必要で、 言うまでもなく不良債権は銀行の経営を圧迫し、自由に回せるお金が少なくなるために新規の出資希望者に対しても慎重にならざるを得なくなり、いわゆる「貸し渋り」という問題まで起こり始めました。この貸し渋りによって、この時期に頻発したのが「黒字倒産」です。これは事業としては毎年利益を出しているにもかかわらず、一時的に事業の継続資金が足りなくなり、銀行に頼んでも貸し渋られて不渡り(請求されているお金が払えなくなること)を出す羽目となり、会社が倒産していく例のことを指しています。たとえて言うなら、パチンコでせっかくスロットがそろっても、打ち出すパチンコ球がない状態のようなもんです。私はパチンコしたことないけど。

 こうした問題の原因は誰の目にも不良債権にあり、ひいてはこの銀行の信用不安が日本全体の景気を悪化させている主要因でもありました。そこにメスを入れたのがこの竹中氏です。
 当時を知る私の眼からしても、竹中氏の政策は苛烈を極めていました。竹中氏が行った具体的な政策というのは、民間の銀行に対して自己資本比率を上昇させるよう強制させる政策でした。自己資本比率というのは、事業者や他の会社に貸しているお金ではなく、銀行の手元にあって自由に使えるお金が貸しているお金も含めて全体の資金の中で何%なのかという比率だと考えてください。

 竹中氏が行ったやり方はこうです。それまで銀行の自己資本比率に加えていた銀行所有の土地や建物の値段は銀行自身が決めていました。もちろんどこも自己資本比率が高いのに越したことはないので、それらの不動産の査定は高めに設定していたのですが、これを実際の値段に即したもの、簡単に言うと安く見積もらせるようにしました。こんな感じで、それまでと比べて自己資本比率に加えられていた資産を除外、減少させ、銀行の自己資本比率を無理やり下げさせていきました。

 その上でもし、自己資本比率が一定の割合(確か5%だったっけな)を下回った場合、竹中氏はその銀行に対して公的資金を注入することを宣言していました。ただし、その際は銀行の経営陣には全員辞職してもらい、銀行の経営は国が管理するという実質国有化が条件でした。こんな条件、どこの銀行だっていやです。
 こんな感じで、竹中氏は銀行に対して脅迫めいたやり方で、不良債権の処理を銀行に行わせました。

 なぜ不良債権を処理させると自己資本比率が上がるかですが、先ほどの一千万円を貸して二百万円しか残らなくなった事業者の例で言うと、少なくともまだ二百万円は残っています。そこでこの事業者にはこの際会社を倒産させてもらい、残っている二百万円だけでも回収できれば、銀行はそのお金は自己資本として換算できるようになります。こんな感じで竹中氏は銀行を脅迫し、銀行に赤字企業をどんどん倒産させるようにしていきました。

 この点がよく竹中氏へ批判の槍玉として上げられる点で、会社の倒産を増やして失業者を増やしているとか、必死で頑張っている企業を潰させている、貸したお金を苦しくなったら無理やり奪い返させている(貸し剥がし、と当時は言いました)などと、血も涙もないなどとよく批判されました。
 しかしこれはうちの親父が言っていることですが、言ってしまえばそのような赤字企業は事業的にはとっくの昔に倒産している会社で、銀行の出資によって無理やり生きながらえさせているゾンビのような会社で、そのゾンビを生かし続けるために生きている企業、黒字の企業にお金を回さないで殺す(倒産)というのは本末転倒である、という風に言っており、私もこの考えに同感です。

 なお、この前テレビ番組で元経済産業省の官僚だった若手政治家が言っていましたが、やはりこの時期は倒産していく企業家から脅迫めいた電話が何件もかかってきたそうです。それだけ苛烈な政策を竹中氏は採ったわけですが、結果的に銀行は自己資本比率を回復し、安定して資金を提供できるようになり、現在のようにひとまず全体の景気は落ち着いた次第です。

 さらには、銀行は自己資本比率を上げるために、銀行同士で合併を繰り返していきました。合併によってまだ余力のある銀行が他の銀行を吸収したり、経営の合理化を図るようになっていき、あんだけあった民間銀行が今ではメガバンクだと三行しかなくなりました。ちなみに、就任当初に竹中氏は、
「メガバンクは三行あればいい」
 と言っており、見事そのように現実はなりました。お前は孔明かよ。

 さらにさらに言うと、最初に言った不良債権の半減化は実質、就任から二年半で達成されました。就任当初は何度も批判され、相当根に持っていたのかこんなことも言っています。
「民主党は三年でできるはずがないと私を非難しましたが、二年半でできたじゃないですか」(文芸春秋のインタビューにて)
 実際、三年以内にあれだけ膨大だった不良債権が半減化されるなんて誰も信じなかったと思います。しかしこの政策の効果はすさまじく、この政策があったからこそ日本の景気は再浮上できたのだと私は信じており、竹中氏を最も評価する点でもあります。

 長文、お疲れ様でした、書いてる私もへとへとだけど。これ書くのに一時間強かけてるんだよ。

2008年8月1日金曜日

内閣改造の政治的手法

 本日午後、福田内閣はかねてから予想されたように内閣改造を行いました。昨日の記事に簡単な予想と今後の影響を書きましたが、案の定というか渡辺喜美前行革担当大臣は外されてしまいました。逆に渡辺前大臣が行ってきた公務員改革に批判的だった町村氏は官房長官に残留したので、今後政府の公務員改革はブレーキがかかることが予想されます。さらに言うと、町村氏は前回の自民党総裁戦時に福田の肩を持つ代わりに閣僚ポストをもらうという密約をしていたそうなので、今回の残留もよく分かる話です。
 個人的に一番残念だったのは野田聖子が閣僚入りしたことです。彼女については以前に書いた「野田聖子の公認」に散々悪口書いているので、暇だったら見てください。

 さてそんな説明はどうでもいいとして今日の本題です。コメント欄に内閣改造をするのは支持率回復が目的なのかという質問があったので、いい機会なので政治的手法からみた内閣改造の醍醐味を解説します。

 まず最初に言うと、この内閣改造が政治手法として使われ始めたのはごく最近です。やり始めたのはほかでもなく、小泉純一郎元首相です。
 もともと日本の内閣、それも戦前の頃は一人の閣僚でも首相や他の閣僚の意見に反対すると、内閣不一致とされて首相は辞職を余儀なくされていました。代表的な例は陸軍が大臣を出さずに流産した林銑十郎内閣や岸信介の裏切りによって倒れた東条内閣などがあります。現在の内閣改造に近い例としては、近衛文麿内閣時に松岡洋介外務大臣をやめさせるためだけに近衛文麿は一旦辞職し、すぐにまた指名を受けて再組閣した例があります。

 この内閣の全会一致制は戦後になるとこの制度を悪用した陸海軍の反省もあり、首相権限に国務大臣の罷免権が明記されるようになり、その時々の政権目標ごとに国務大臣を入れ替えられるようになりました。しかし戦前の例もあって、真っ向から大臣に反対されると辞職を余儀なくされることは慣例として残っており、55年体制崩壊時の宮沢喜一内閣も、ある郵政大臣の首相の辞職要求を伴った辞任がきっかけで倒壊しています。

 そんな内閣改造を、一挙に政治的手法に持ち上げたのが小泉元首相でした。ちなみに一番最初にとっかえられたのは、外務大臣をやっていた田中眞紀子でした。
 恐らく、小泉氏は明確な目的をもってこの内閣改造を行っていたように思えます。その任期中では、細かい人員の変更を除く一気にメンバーを刷新する内閣改造を三度も行っています。

 なぜ小泉氏はこう何度も人員を変えたのでしょうか。その理由はほかでもなく、官邸、つまり首相自身の権力強化が目的だったのでしょう。それまでの日本の政治では、首相自身がやりたいと思う改革、政策があっても、自民党に慣例として残っていた役員会の全会一致がなければ何も実行できませんでした。つまり首相にやりたいことがあっても、党の長老なり執行部なりがそれに納得しなければ何もできなかったのです。これは現在も続いていますが、日本の政治システムの最大の弱点は、最高権力者である首相が持つ権力が小さいということです。

 そういった状況の中、小泉氏はこの内閣改造、というより閣僚ポストをエサに党内の反対勢力を押さえ込む方法に出ました。そのからくりというのも、首相である小泉氏の政策に共鳴するならば閣僚ポストが得られるが、反抗するならば年功序列から派閥の推薦を無視し、一切ポストを分け与えないという、従うのならばエサをやるというような手法です。この手法により、小泉氏は自民党内で当初は政策の違いのあった人間でも、閣僚ポストを分ける代わりに反対意見を封殺していきました。麻生太郎氏などは、総務大臣にいきなり上げて、まさに昔に言うところの位討ちを受けて一気に小泉支持へと変わったように思えます。

 逆に反対勢力はこの手法で徹底的にあぶりだすとともに、その勢力の人間を麻生氏のように位討ちしては徐々に切り崩していったようにも思えます。このように、人事権を以って小泉氏は党内運営を行い、当初は不可能と言われた自民党の票田をわざわざ切り離す郵政民営化を実現したのです。

 ただやっぱり万事がなんでもうまくいくわけでもなく、郵政解散の際には岩永峯一元農水大臣が小泉氏の解散発議に反対を表明しました。しかし小泉氏はそんなのお構いなしとばかりに、かつては素直に辞職した宮沢氏と異なり岩永氏を即座に農水大臣から罷免すると、自ら首相と農水大臣を兼任してまで内閣内の意見一致をはかり、郵政解散へと踏み切りました。なおこの際、全会一致が慣例であった自民党役員会でも反対者がいるのに、初めて多数決で解散を認めさせています。

 私が見るに、内閣改造は支持率の回復というよりは、こうした党内運営のための手段としての方が価値は高いと思います。しかし状況に応じて大臣を変えることにより、その時々の政策目標に人員を絞れるという面もあり、実質的な効果も少なくありません。ただ小泉氏の場合、不評だった大臣を変えたり、大胆な抜擢を行って支持率を上げたり、自分の政策目標に目立つ大臣を据えてメディアへの露出を増やし、その政策目標へと国民の関心を向けさせるように誘導していくという目的の方が大きかったでしょう。どっちにしろ、人員は一新されるとなんだかんだ期待感や新鮮さが出てくるので、そういったものが支持率の回復につながるのではないでしょうか。

 最期におまけとして、途中で上げた宮沢内閣で辞任要求を突きつけた当時の郵政大臣というのは、何を隠そう小泉純一郎氏です。自分が反対された時は切って捨てたのに、昔は同じことを自分がやっているという、よく言われていますがこの人は本当に過去を気にしないようです。
 そうやって、ばっさばっさと反対したりいらなくなった人間を切ってきた小泉氏ですが、在任中にずっと大臣に据え続けて手放さなかった人物が一人だけいます。それがあの竹中平蔵氏です。前から準備してきたので、この次は竹中平蔵氏についてついに書くことにします。