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2007年12月31日月曜日

失敗の価値

 前回では失敗から反省しないのは動物以下だと書きましたが、今回は逆に反省ができなければ大器にあらずという話を書きます。

 近年、というより大体2000年頃かな、その辺りから官僚の不祥事が相次いで、段々と東大出身のトップは良くないという話が出始めました。別に東大がどうこう言うわけじゃないのですが、これはよく世間でも言っていますが、失敗をしたことのない経営者は最後の最後で命取りにつながりかねない失敗を犯すとも言われています。

 先ほどの東大の話だと、子供の頃からずっとエリート街道というのが良くないといった形で批判されていましたが、私なんかもやっぱり若い頃は成功することよりも失敗している方がいいと思います。最近だとホリエモンなんかがこの例に当てはまるのではないでしょうか。大学を出て大成功しちゃったばかりにライブドアを危機にさらす失敗を犯した、もっともまだこの事件は評価する段階にはありませんが。
 逆に、若い頃何度も失敗した人間は後々強いです。エジソンは何度も会社が潰れたりしてるし、カップラーメンの創始者安藤百福などはすってんてんになったあと、一人でカップラーメンを作ってます。

 自分の周りでもやはりというか、たまに失敗をした事がないだろうと思われる人もいます。その手に限ってどこか、現実離れした発想をしてきてびっくりさせられるのですが、若い頃の苦労は買ってでもしろと言いますが、個人的には若い頃の失敗は買ってでもしたほうがいいのではないかと思います。

2007年12月30日日曜日

人間と動物の違いについて

 よく人からも注意されますが、自分は結構怒りっぽい性格です。そんな私ですが、自分では結構気の長いほうかなとも思っているのですが、どうも怒った時のリアクションが激しい成果、そうは思われていないようです。基本小さなことではあまり怒らず我慢するのですが、それが積もり積もったところで激しく怒り出すのが良くないと自分でも思っているのですが、そんな自分でも一発で激怒することがあります。ずばり反省しない輩にです。

 これは普段から思っているのですが、人間が持つ、他の動物にない最大の能力は反省することだと思っています。というのも、他の動物は一度失敗をしても、大抵はまた同じ失敗を繰り返してしまいます。知能の高い犬や猿などは数回の失敗を経て行動を学習して失敗を防ぐようになりますが、それはその動物単体にしか行われず、他の犬や猿は同じような失敗をしないとその学習が起こりません。ですが人間の場合、ある人間が失敗をしたという情報が伝達されると、100%とはいえませんがその情報が伝達された人は失敗を防ぐ行動が取れるようになれます。
 一例を持ってくるなら、誰かが床の上で滑って転ぶと、それを見ていたほかの人はその床の上を注意して渡るようになり、結果的には同じ転倒が起こらなくなるといったものです。

 この反省の伝達が人間には起こる上に、記録という方法を使うことによって現代のような文明を人間は作ることができました。そういった意味で、私などはこの「反省」という能力に常日頃から非常に着目しており、この能力の高さがそのまま人間の優劣につながるとも考えています。考えても見ると、同じ注意を何度受けても失敗を繰り返す人もいれば、一回の注意、果てには周囲の状況を見るだけでその失敗を犯さない人もいます。このような差がそのまま人間としての能力に関わってくると考えています。

 逆に言うと、この「反省」が起こらない人間というのは人間としても非常に駄目な存在だとも思っています。失敗はそれこそ誰にでも犯す確率のあるものですが、伝達だけで防げないならまだしも、それを何度も繰り返すというのは下手をしたら犬や猿以下の本能的能力ではないでしょうか。

 ここで話は戻りますが、私が一度に激怒するタイプの人間というのはこの手のタイプです。数回の注意や勧告にもかかわらず、問題な行動をとる人間に対しては自分でもやばいくらい怒ったりしています。もちろん、私も万能人間でないので方々で何度も失敗を繰り返しています。しかし世の中には失敗をしながらも全く反省のそぶりや、周囲に対する申し訳のなさを見せない輩も多く、この手のタイプとは多分一生仲良くなれそうにないと思います。

 反省だけなら猿でもできる。ある意味、これは名言だと思っています。
 今回は失敗に対する否定的な考え方を書きましたが、次回では逆に肯定的な考え方を書きます。

2007年12月28日金曜日

大学闘争時代を読む~その三~

 続いて三回目。今回はその集団に対する価値観です。
 もう多少面倒くさいので、結論から言います。やはりこれだけ時間も経つと、日本人も価値観って変わっちゃうんだよね、ってのが結論です。

 一番最初の投稿にてすでに書きましたが、昔の人は日本を背負って立つような意識を持つ井上康生が好きらしいです。同様に、当時の学生運動の各会派を見ていると非常にグループ意識というか、集団意識が強かったような気がします。私はというと何でそこまで内ゲバやらかすまで集団に固執するのかが、当時の学生運動をやってた連中の思考で最もわからないところです。

 現代日本に生きる、精神年齢こそすでに年寄りくさいですが一応若者の私はというと、その所属している会派の主張が自らの主張と合わないというのならば、とっととその集団から離脱して、気の合う連中とまた別の会派を作ればいいのではないかと考えたりします。ところがこの時代はというと、自分が会派の主張と合わないと内ゲバやったり、会派の中でも権力争いやら主導権争いして主張を変えようとするなど、更には別の会派とも激しく殴りあったりリンチしあったりと、何故だか徹底的に思想の統一を図ろうとしています。これが全く私にはわかりません。
 恐らく、これはもっている価値観の違いだと思います。現代でもキリスト教徒イスラム教は互いに理解しあえない(日本やインドは多神教だからまだ双方を少しずつ理解できるらしい)と言いますし、根本から価値観が当時の活動家と私が異なるために理解できないのだと思います。

 では、一体どのような価値観が異なっているのかというのが、それが今回槍玉に挙げた集団に対する意識の違いかと思うのです。昔と今とで比べると、それははっきり言ってもいいくらいに個人の比重が高まってきています。これは別口でまとめていますが、いわゆる「失われた十年」の間にフェミニズムなどの欧米の価値概念の輸入に伴い、個人意識、個性というものが日本人において非常に高まりました。また社会的インフラ、分業が発達したため、地域の共同体に属さなくとも生きられるようになったのも大きな原因です。何気に今、村落社会を扱った「ひぐらしの鳴く頃」を読んでます、あまり関係ないけど。
 それはともかく、このように行動単位も集団から個人へと切り替わり、意見の発信の仕方も大きく変化しているように思えます。たとえば、それこそ昔ならばそれなりの学術団体やらマスコミに入らなければ大きく情報を発信できなかったものが、現在ではこのようにインターネットを介すことによって一人でも配布できる情報量は操作できます。敢えて想像するならば、やはり以前は集団を介してしか情報の発信が行えなかったために、情報を発信するために集団内であれこれ抗争があったり、またそれが集団意識の強化にもつながっていたのではないかと思います。

 このような集団から個人への意識の変化の根拠として、大学のサークルなんかも挙がってきます。聞くところによると全国の大学のサークルはどこも弱っているらしく、集団としてのまとまりがなくなってきているようです。一つに大学側が出席を厳しくしだしたなどもありますが、やはりその背景には先ほどの個人化の影響があるのかとにらんでいます。しかしそれでも昔の価値観を保存しているところももちろんあり、それが最初に言った私の嫌な上司だったのかと思います、本当に嫌な奴だった。

 ただ彼の価値観を考えると、上が白というなら黒も白というような、集団においてリーダーシップの非常に強い価値観だったと思います。確かに嫌々ながらみんなそれでまとまっていたところもありますが、現在の共産党、社民党の現況を見ていると、長期的にはそれだと集団は成り立たないと思います。以前にある人から聞きましたが、民主主義も欠点は多いものの、独裁主義など他のやり方に比べて一番マシなやり方だといいます。実際、独裁主義にはない自浄作用も存在するので私もそう思いますが、未だ日本の運動部や体育会にはこのような古い体制が残っているといいます。個人化によって広がるリスクもありますが、まずは旧来の残滓を完全に取り除くのが、私の時代の役目かなと思っています。

大学闘争時代を読む~その二~

 前回に引き続いて、大学闘争時代の日本人についての考察です。

 まず最初の疑問点だったその攻撃性についてですが、これはあれこれ議論されていますが、自分はやはり共産党宣言の教義が原因だったのではないかとにらんでいます。周知の通り、共産主義においては階級間対立が非常に強調されています。その階級観というのも二元的なもので、いわゆる資本家層と労働者層の二つで、私の好きな佐藤優なんかは官僚というもう一つの階層を忘れているという主張をしてますが、とにもかくにも共産、社会主義はこの二項対立が非常に強い価値観です。
 重要なのはこの二つの階級観ではなく、共産党宣言には階級間の対立を煽る主張があることです。「万国のプロレタリアートよ、立ち上がれ」などと、資本家層との対立が労働者層に宿命付けられているかのような言質がとられています。

 恐らく、元の共産党の概念においてはこの辺で止まっていたかもしれません。しかしマルクスの予期せぬロシアで最初の革命が起こり(マルクスは資本主義が最も発達したイギリスにおいて最初の革命が起こると予言していた)、しかもその革命がボリシェビキによる暴力的な革命で、その後のスターリンによる力による圧政から、暴力によって革命は起こされるようだという意見が大学闘争時代の当時にあって支配的だったような気がします。

 このような過程から、日本を社会主義化するために日本においても暴力を使う、言ってしまえば議会において多数派となるような方法ではなく、暴力的な手法が好まれたのではないかと思います。これは社会主義の間においてのみこの傾向が強まったため、保守へとその暴力は向かわず、同じ社会主義内の各グループでどつき合ったりすることになったのではないでしょうか。

 こんなところが私なりの優等生的な意見です。ここで敢えて斜めに構えてまた考えてみると、これとは別に、ただ単に大暴れしたいというだけの連中が大して物を考えず、差しあたってカッコのつくように社会主義のブントやら共青やらに入ってボコボコやってたのではないかとも考えられます。当時からも言われていますが、当時の活動をしていた学生の中には誰も「資本論」を読んだ人間はいないといいます。個人的に実名を挙げちゃうなら、テリー伊藤なんかこの部類じゃないかな。

 あと補足的に追加するなら、思想の統一なんかも非常に叫ばれていました。まぁ最初に団結せよなんていって、不確定分子はすべて叩き出した上で革命を起こせなどと言われてましたし、そういったことから会派対立が強まったとも考えられます。暴力についてはこんな感じで、次からやっと本題だ。

2007年12月27日木曜日

大学闘争時代を読む~その一~

 前回の投稿から三日もあきましたが、決してサボっていたにあらず……バイオ4をちょっと、というのもありますが、今回から書く内容の構想も練っていました……本当だよ。
 というわけで早速今回のお題、「大学闘争時代を読む」ですが、恐らく書く内容は膨大になるので、数回に分けられると思いますが。それでまず、今回は大学闘争の時代についてです。

 以前に、といっても結構前で、確かオリンピックのあった年だから2004年のことだと思います。友人が自分が貸した雑誌を持ってきて、ある記事を引用しました。その記事の内容というのは、誰かは忘れたけど、ある評論家が当時のオリンピックにおいて谷亮子選手が金メダルを取った際にガッツポーズをとったのに比べて、柔道の井上康生選手は負けた際に、「日本の皆様、申し訳ございませんでした」と言った事実を元にして、前者はオリンピックでの競技を競技者個人のものと考えているのに対し、後者は日本の代表という意識で、それはそのまま今の日本人と昔の日本人の意識に当てはまり、昔のオリンピック選手は日本という国の威信をかけてオリンピックに行っていた。私(評論家)はやはり井上康生の方が好きだ、という内容でした。

 友人が言うには、当時私と彼の上司が、こういうのもなんですが非常に嫌な奴で、めちゃくちゃな指示や行動をして周りを引っ掻き回していたのですが、友人は先ほどの記事を読んで、その上司は昔の考え方をしていると考えたら、その行動原理がやっとわかったと言うのです。まぁ単純に言って、その上司は考え方が古い、集団を強く意識しているというわけです。

 それが事実かどうかはわかりません。まぁ言われてみて私もなるほどと思ったのですが、最近、もしかしてこれもそういった部類なのかと考えている対象が出てきました。いわゆる大学闘争時代の各派の争いや行動原理です。

 最初に言っておくと、私はこの時代の本をいくら読んだところで何も理解できないのです。それこそ民青やら共青、ブントなど、社会主義を標榜する学生のグループは当時たくさんありましたが、何故もって連中が互いに角棒で殴り合わなきゃいけないのか、赤軍派のリンチ殺人などがあったのか、全く以ってその行動原理がわからないのです。単純に自分がバカなだけだと考えてもいいのですが、バカにもバカなりに理解したい気持ちもあるので、今回こうしてまとめています。

 主な疑問点は三つ。最初に挙がってくるのはその攻撃性。あさま山荘などのリンチ殺人はもとより、火炎瓶を放り投げたり角棒で殴るなど、現在の感覚からすると異様な暴力性で、何故以ってそんな痛みの伴う活動に当時の学生は参加したのか。私なんか、こんなのゴメンです。しかもその暴力の矛先が本来なら彼らと意見が真っ向から対立する自民党シンパなどには向かわず(成田闘争は例外ですが)、同じ左翼系の組織同士でやりあっていたというのがわかりません。
 次にその主張。言っては何ですが、そのどれもがもともとの共産主義的思想からかけ離れているような気がします。そもそもソ連に範を取るというのも間違っていましたし、具体的に経済体制をどうしたいのかが彼らの主張から全く読めません。
 そして主張に関してもう一つ。当時の大学闘争時代は各学生寮が強い力を持っていたとさまざまな場所で言われていますが、現在ある大学の学生寮のホームページを見ると、その学生寮の歴史というコーナーで、「大学との交渉の結果、電気ガスなどの公共料金の負担を大学側に負わせることに成功した」と、さも誇らしげに書いてあるのが不思議でした。そんなの言ったら、いざというときに大学側が寮のライフラインを止められるという不利な状況とも取れる上に、独立自主を掲げているにも関わらず、それら料金すら払わないというのは何かが違うような気がしました。

 といったように、全くわけわからない行動原理ばかりです。最近になって、こうじゃないかという逃げ道みたいな考え方が思いついたので、続きは次回にて。

2007年12月24日月曜日

クリスマスについて

 時事ネタもそろそろ扱わないといけないので、イブでもあることですし日本におけるクリスマスについて語ろうと思います。

 最近、というよりも昔からですが、日本人はキリスト教徒が少ないにもかかわらず(確かプロテスタントが1%くらい)、クリスマスを行事として行ったり、またこの時期にカップルがいちゃいちゃするのは不謹慎だという議論がかまびすしいです。結論から言うと、何を言うかといったところでしょうか。

 第一、それを言ったら日本人に多い仏教の儀式はどうなっているのかというと、全然行われていません。初詣こそ九割近くの日本人が行きますが、お盆の墓参りなどは減っていますし、また節分などの年中行事は中国から伝来してきたものですが、日本には中国人が少ないにもかかわらずうんたらかんたらといった話は聞きません、あったら面白いけど。
 で、クリスマスについてですが、それを言ったらアメリカのほうがひどい気がします。アメリカはこの時期が一年で最も消費が進む時期で、第一サンタクロース自体がキリスト教徒は完全無縁な、北欧での行事で、それとキリスト教を絡めて不謹慎だなどという方が、そもそものキリスト教への知識が不足しているのではないかといいたい。
 更に言うなれば、以前にアメリカ人に日本のクリスマスの現状を伝え、日本はあまり細かいことを気にせずに騒ぐといったところ、アメリカ人はもっとそうだと帰ってきました。言われてみると、連中も年中何かと記念にしてパーティーを開いてます。

 そもそも、資本主義の国になっているんだから、こういう現象が起こること自体が自然の摂理だと思います。それをあれこれ宗教観と絡めて話すこと自体が非常にナンセンスだと思うし、やりたいやつにはやらせておけばいいというのが私の結論です。それ以上に、日本人はもっと別のマナーなどに注意すべきではないかと思います。モンスターペアレントとか、このところ訴えたもん勝ち的な空気だし。

 最後に一つ、自分なんかは以前に熱心にキリスト教を信奉していましたが、最近はめっきり空気も冷めました。精神的に安定してきたせいだと思いますが、自分自身、救済の対象と思わなくなったのもあると思います。

BRICSその四~チャイナ~

 ようやく最終回、でもって中国。普通にこの前会ったばかりの人に、かなり専門的な中国ネタを披露していたらやめてくれって言われました。やりすぎた。

 さてこの中国、日本の経済情報誌はほぼ毎号特集を組んでいるから非常に情報が得やすいです。なので今回は当たり前のことは書かずに、その裏側などについて書こうと思ってます。
 まず中国の主産業ですが、結構勘違いしている人もいるかもしれませんが、軽工業です。よく自動車の組み立て現場なんかの写真が紹介されるから重工業と勘違いしている人も多いのではないかと考えていますが、実際はというと衣服や簡単な生活用品の製造、組み立ての軽工業が主体です。いっちゃなんですが、富岡製糸場とかあった明示の日本に酷似しています。

 何故こうなったかというと、これも言うまでもなく中国の最大の武器である人件費の安さからです。世界最大の人口を誇るというだけあって、労働力にはまった困っていない中国なので、このような安く製品を作るということに関しては非常に強みがあります。この強みを生かして、実質、ここ数年の世界経済を牽引していたのは中国です。

 しかしそんな中国をいつまでも、ほっとくと思うなアメリカはといわんばかりに、かつて日本が歩んだように、確か去年頃にアメリカは中国に対して繊維輸入規制をかけました。要するに、中国からアメリカへ持ってくる繊維製品の量を制限したのです。これはこれから徐々にかけるであろうアメリカの中国への制裁一発目と考えることもできます。またこれまでのやり方、産業では中国もやっていけないことを暗に示した事件です。
 もっともこれに対して中国は、フィリピンなどに繊維工場を作って、第三国を経由する形で依然と輸出を続けています。ほんと、何から何まで日本と同じだ。

 で、ここからあまり言われないネタですが、このような中国経済の現況を中国人も問題視しています。かつての日本の経済成長が終わった時代には、すでにソニーや松下といったブランドが確立されていましたが、現在に至るまで中国はそのようなブランドはおろか、「安くなければ買わない」とまで言われるほどのニセモノブランドのイメージが定着しています。世界的に名の知れた企業もあえて言うなら「LENBO」位で、あとは「ハイアール」がぎりぎりアジアに知られているくらいです……何気に、経済がまだ成長していない東欧などではハイアールはよく知られてますが。
 そのほか、かつては安いといわれ続けた人件費、無限といわれた労働力も陰りが見えてきました。これは明らかに一人っ子政策の影響もありますし、以前のように3K労働を中国人がやりたがらなくなってきたこともあります。そのせいで現在、このような職場を担当している農村から来ている出稼ぎ農民の民工市場も不足し始め、各職場で人間の争奪戦が行われているらしいです。

 まぁ中国に限って言えばまだまだ書くこともありますが、ひとまずはここまで。今後もあれこれ書くだろうし。