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2018年4月7日土曜日

昨今の表現規制について

名越稔洋が選んだ修羅の道【若ゲのいたり】(電ファミニコゲーマー)

 上記リンク先は先日にも引用したページですが、同業者からも「なんだこのヤクザは!?」と言われたこともあるセガのゲームクリエイター、名越稔弘氏がヤクザが主役のゲームを出す際、倫理管理団体から難癖をつけられたエピソードが描かれています。その難癖というのもキャラクターが赤い血を吹いて倒れるのはNGだというもので、人間以外なら赤い血でも問題がないと言うので、「じゃあピ〇チュウだったらいいのかよ!」と凄んで無理矢理通したという過程が紹介されています。

 あまりこのブログで表に出すことはないですが、実は私自身も表現の自由に関しては非常にうるさいというか、「たとえすべてを敵に回してでも表現の自由は守る」という立場を取っています。たまにこのブログでも内容には言及せずどうでもいいような枝葉末節な表現に「不適切だ」という輩がいますが、割とコメントでは優しく返信しているものの内心では、「うるせぇだったら人のブログ読んでんじゃねぇよ!」と吠えてます。ブログなら何でも書いてもいいというわけではありませんが、公のメディアでもない私記に対し、しょうもない表現についてガタガタ言われるのは壁に頭突きするくらい実は腹立ってます。
 もう誰もが忘れていると思いますがこのブログの設立当初の大きなテーマはまさにこうした表現の自由で、90年代に巻き起こった「言葉狩り」、「ちびくろサンボ問題」などをよく取り上げていました。現在においても主にマナー会社が言葉狩りをやり始めており、「了解しました」は不敬な言葉だなどと誤説を流布している点など腹に据えかねています。何やってもいいってんなら金属バット持ってこういう言葉狩りに加担するマナー会社にたけし軍団のように襲撃をかけたいとすら本気で思っています。自由の身になったらいつかやろう。

 話は戻りますが、先ほどの「赤い血」という表現について実はつい最近も思うところがありました。というのも「ニューダンガンロンパV3」というゲームをこの前クリアしましたが、このゲームは閉鎖空間で高校生同士が殺し合いをやって、事件ごとに犯人と殺害過程を推理、追跡するゲームです。そんな内容なんだからもちろん死体はダース単位で出てきますが、血液は赤ではなくピンク、それも蛍光カラーのようなショッキングピンクで表現されています。
 恐らくゲームの倫理管理を担当するCEROの指示を受け、また対象年齢を広げるための措置だとは思うのですが、私としては逆にこれはこれで問題なように思えてなりません。何故かというと、先ほどの名越氏の漫画にも描かれているように人間に流れる血液の色は赤以外なく(ナメック星人は除く)、それを別の色で表現することは現実を否定していることではないかと思うからです。

 先ほどのダンガンロンパの例でいうと、作中でもそのピンク色した液体ははっきりと血痕だと明示されています。しかしピンク色した人間の血液なんて存在することなく、また流血という描写でありながら現実そのままに描かない理由というのはなんなのか。赤という色が刺激が強いというのであれば、赤い郵便ポストはどうなのかという話にもなります。

 これ以上ロジックをかき回してもしょうがないので言いたいことを言いますが、現実の通りに描くことがアウトだというのは、自分は絶対に認められません。現実をそのまま描いてはならないというのは現実逃避と変わらず、また現実を直視する姿勢をなくしては人間ははっきりダメになると私は直感的に思います。
 私自身の表現もよくきついと周りから言われますが、「でも現実を書いている。自分が殺したいと思う人間については、実行するとなると別だが、殺したいと書いて何が問題だ」と、自分の現実にある感情を描いていることを理由に主張を展開しています。

 こと、ゲームや漫画といったメディアに関しては確かに残虐表現への年齢に関するゾーニングは必要であると私も考えています。しかし「現実であるはずの表現を別のものに差し替える」というのは話は違い、それは絶対に認めてはならないと私は考えます。理由は何度も書いている通り、現実をそのまま描くことを否定しては逆に物事がいろいろおかしくなってしまうからで、ここは譲ってはならない点だと思えてなりません。
 第一、現実ではなくファンタジーだったらオーケーだというのもおかしいにもほどがあります。先ほどのピカチュウが赤い血を吹くという表現がオーケーなのに人間が赤い血を流してはダメだなんて、これだと逆の意味で倫理がおかしいでしょう。

 残虐表現とは離れますが、日常の光景に関する表現についても同様です。よく漫画とかの街中の光景で誰がどう見たって全国居酒屋チェーンとか某有名銀行の看板が書かれていながら、店名が微妙に弄られ変えられていることが多いですが、これもやっぱおかしいと私は思います。街の光景、それこそ多くの人間が連想できるほど日常的な物であれば、それをそのまま描いて何の問題があるのだと逆に問いたいです。
 もっとも、作中で激しくけなされたり非常に悪く描かれるというのであればさすがに別で、そういう場合は架空の表現を取るべきかとは思います。具体的にはスト2のボーナスゲームでボコボコに壊される車がトヨタとか日産のエンブレムついてたらさすがに関係者は気分悪いだろうし。

 一方的に書き殴りましたが私が言いたいことを述べると、現実をそのまま描くことを阻害することは現実否定もいいところで、そんなことはしてはならないということです。むしろ芸術的な立場で言えば私は現実を如何にそのありのままに描くかにこそ価値が宿るという立場を取る者で、妙な美辞麗句や見栄えだけのいい世界なんて求めていません。以上の主張は絶対的に正しいというつもりはありませんが、現実を直視する、厳しい現実から目を背けてはならないという私個人が立脚する立場から言えば現実を描く表現の阻害はたとえ相手が誰であろうとなんであろうと抵抗し、敵対することも厭わない立場となります。

6 件のコメント:

サカタ さんのコメント...

お久しぶりです。

SNS上の記事で「了解しました」という言葉は目上の人には使ってはいけないという記事を僕も見ました。その記事には、本来なら「承知しました」というべきで、適当ではないといういみで書いてあり使ってはいけないという感じではなかったので、なるほどなと思いましたが、家の会社でそんなこと気にする人はいないとも思いますね。

現実を直視することをやめてはいけないということはとても共感します。現実を捉えられてはじめて考えが浮かびますし、問題点が見えて思考を深めるとその解決策を思い付いたりできると思います。なので、すべての思考の根元に当たるのが、現実の把握なのではないかと思います。

規制したがる人たちは、自分達はキレイな世界に生きていると思いたいから、実際には存在しているが、汚いものを私たちに見せて、私たちの世界観を壊してほしくないという考えで、そういう考えを持っている人たちのエゴなのではないでしょうか?

特に感情でものを考える人たちが陥りそうなそ気がしますが。どう思いますか?

花園祐 さんのコメント...

 こちらこそお久しぶりです。
 相変わらず指摘が鋭く、読んでてこっちも楽しくなります。「了解」の件はガチで言われて、どうせ反論しても耳貸さないだろうから「はいはいわかりましたよ」とさらって私は流しましたが、今に世の中ひっくり返してやると内心考えてます。っていうかこんなどうでもいい言葉をいちいち指摘する辺り、そもそも間違った解釈で偉そうにするなんてちょっとおかしいでしょう。
 コメントに書かれている表現規制を行う人間については基本同感ですが、もう少し見方を変えるとより分析できるので、早速この後書いてみます。

片倉(焼くとタイプ) さんのコメント...

マナー会社の言葉狩りには、マナー会社の陰謀があると思っています。もし全ての人が
マナーを身につけてしまえば、マナー講師の講習を受講する必要なんてなくなります。
それは、マナー会社の売上減少につながります。 だから出所不明のマナーを作りだし
て、売上が下がらないようにしているのだと思います。
以前、バラエティ番組で マナー講師が、お茶は弔事に使われるので御祝い事に送るのは
マナー違反だと発言したところ、老舗の茶問屋が、お茶は昔からお祝い事の贈り物と
して使われていた とツイッターで反論していました。 特に九州ではお茶は縁起の
よい贈り物として使われるようです。

マナー違反の対象にするものは誰が考えてもおかしいものだけにすべきでしょう。例えば
昔、ガンダムSEEDの関連グッズで年賀状作成ソフトがありました。 それにはスタンプ押印
機能があり、なぜかドクロマークのスタンプもありました。年賀状にドクロマークのスタンプ
を押印する、これがあきらかなマナー違反というものです


花園祐 さんのコメント...

 マナー会社の件は明らかに彼らの商売上の理由からの主張、行為でしょう。この辺、次の記事でびっしり書いています。
 やや逆説的ですが、違反とされるマナーが少なければ少ないほどみんな腹を立てることが少なくなるのではないか、寛容的な社会になるのではないかと私は思います。そういう意味でマナーというのは、「あまりにも不統一すぎるとなんだからとりあえずこういう時はなるべくこうしてこうね」的なルールであってほしいと常々考えています。

 ドクロマークのスタンプですが、ワンピースが好きな人ならありかもなとちょっと思いました。なお私は高校生の頃、年賀状に何を思ったのかなんかのゲームの百鬼夜行のような場面を印刷して配りまくったところ、年明けたらみんなから「なんなんだあの年賀状は!」と大反響を受けました。後々まで各家庭のお父さん、お母さんに、「あの凄い年賀状送ってきた奴だよ」と紹介されるに至りました。

川戸 さんのコメント...

先日、痴情波のマナー番組を家族と視聴していたところ、上座、下座の解説要項で、エスカレーターは昇る時は前に立つ人が頭が高いから上座、下るときは後ろに立つ人が同様の理由で上座である、とされていました。勉強熱心な父は、「エレベーターの上座は知っていたがエスカレーターは知らなかったなあ!」と感心していました(笑)。それで私が「そんなこと誰が決めたんだ?」と言ったところ父も唸っていました。お茶の作法など、道を拓いた先人が決めたルールはともかく、おそらくその設備の設計者は意図しなかったであろう使い方のルールを決めるのは誰なんだろうと、純粋な疑問からそのような言葉が口をついて出てきました。実際、エスカレーターなどという現代設備の運用と客室の上座のマナーが同列に扱われていることに違和感を覚えたのがきっかけでした。

マナーは本来相手に不快感を与えないようにするための技術なのに、新たな不快感を産むだけのマナーと、過度な表現規制は世の中を生きづらくさせるだけなので消え去って欲しいと常々考えているので心地よい記事でした。
表現規制はともかく、不必要なマナーの伝播は歴史的に見られる現象のような気がしますが(中国の纏足とか)、花園さんはどう思われますか?

花園祐 さんのコメント...

 結論から書くと、不必要なマナーが何故生まれるのかというと、他者との差別化が最大要因だと思います。「他の連中よりうちはマナーに厳しい」、「こんなに相手のことを気遣っている」と主張するためなのと、「勝手に新しく作ったマナーを強要させ、何も知らない相手(若年者)を貶める」という目的も過分に含んでいると思います。
 これも記事に書いてもいいですが、例えば茶道の作法なんかは非常に無駄がなく合理的であり優美な仕草で、こうした動きをマナーとして定型化するのは自分も大賛成です。しかし言葉を規制したり、誰も気にしてなかった行為を「マナー違反として突き上げる」なんてのは百害あって一利なく、真面目に目の前にしたらこういうことする奴ら張り倒したいです。
 あと、どうしようかと思いましたがかといってスルーするのも逆にひどいかと思うので指摘しますが、冒頭の「痴情波」は「地上波」の誤変換でしょうね。最初見た時、不思議と組み合わせのいい漢字の並びに吹き出しました(;゚;ж;゚; )ブッ