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2014年5月6日火曜日

創業家列伝~大河内正敏(理研コンツェルン)

 前々から準備をしていたものの資料の読み込みがめんどかったりとなかなかスタートが切れませんでしたが、いつまで続くかわからないものの日本の創業者を紹介する連載を始めようと思います。第一発目の今日は私が一番のお気に入りである安藤百福と行きたいところですがちょうどホットな時期なので、現在のリコーや理研ビタミンの源流となった理研理研コンツェルンを起ち上げた大河内正敏を取り上げます。

大河内正敏(Wikipedia)

 大河内正敏は旧大多喜藩主であった大河内正質の長男として、大久保利通が暗殺された明治十一年(1878年)に生まれます。一高を経て東大に進学すると造兵学科に入り、火薬や弾丸を始めとした軍需品の研究を行い首席で卒業するとそのまま東大講師となり、途中の英国留学を経た後に正式な教授となります。教授時代には弾丸の流体運動を測定しようとするなど兵器研究において物理学の概念を本格的に持ち込み、日本の重工業発展に寄与したと評価されてます。

 そんな学者畑の大河内がどのように理研と関わるようになったのかを説明する前に、簡単に理研こと理化学研究所の成り立ちを説明します。理研は大正六年(1917年)に自然科学の研究機関として民間からの寄付などを元に、渋沢栄一が財団法人として発足します。建前は国家の期間としつつも民間の資本を導入したことから、国の政策にとらわれない研究機関として作られた節があります。

 大河内はこの理研の三代目所長として就任し、、研究分野ごとに研究室を独立させる現在にも続く主任研究員示度を導入します。そしていろいろコネを使いまくったのでしょうが国からの補助金を増やす一方、自分たちで独自に研究資金を集めることが出来ないかと模索します。そうした模索の中で生まれたのが「発明の産業化」という発想で、自分たちが発見、発明した技術をそのまま商品化、量産化にまで持っていき、法人化した上で自分たちで売り資金を集めるという案でした。

 この発想の第一号となったのは最近一部メディアでも報じていますがいわゆる「ビタミンA」で、高橋克己鈴木梅太郎が製造法を確立させると既存の医薬品メーカーを通さず自分たちで製造設備をこさえてビタミンカプセルとして売ってみたら大評判となり、国からの補助金を上回るほどの売上げを得たと言われます。
 このように研究所内で培った研究結果を片っ端から商品化していくという、今でいうベンチャービジネスを理研は展開していきます。販売にはたっては理研の資本で設立した「理化学興業」を窓口にして、製品や産業分野ごとに子会社を理化学興業の下に設けて広げていき、徐々に理研コンツェルンと呼ばれる産業集団へと発展していきました。

 当時に作られた主だった企業を挙げると、食品分野では理研栄養食品という、現在の「増えるわかめ」の販売で有名な理研ビタミンが設立され、ほかには感光紙を製造していた理研光学工業は現在のリコーとなっています。ただそれら以上に理研コンツェルンで基幹企業となったのは軍需分野に関わる理研金属工業と理研ピストンリングの二社で、両社ともに日本の重工業を担う会社となっていき、前者は現在も同じ社名で、後者は「リケン」という名前で現在もピストンリング製造では国内最大手です。

 このように学術研究を実業への転換ルートを作った大河内と理研コンツェルンでしたが、戦時中に国策もあったでしょうがグループ各社は合併して理研工業にまとめられ、戦後はGHQから財閥指定を受けてまた解体されるという妙な経緯を経ています。大河内自身はA級戦犯に指定され巣鴨プリズンに入ったり公職追放の憂き目に遭ったことから理研の所長を辞任し、公職追放が解かれた翌年の1952年に脳梗塞で死去します。

 彼の功績を一言で言うなら産学提携ならぬ産学両立を一挙にやってのけてしまった点でしょう。造兵学をやっていたということから合理的な思考が出来てこういう決断が出来たのかなと思うのと同時に、 現在の理研ではこういう発明の産業化を自前ではやらないのかなという考えがよぎります。余談ですがレノボなんて北京大学の研究室からスタートしてるんだけど。

 最後に、今回のというかこの連載の参考文献として学研から出ている「実録 創業者列伝Ⅰ、Ⅱ」を紹介します。読み物として非常に優れており資料的価値が高いことから肌身離さず持ち続けている本で、今日書いたこの記事もほとんどこの本から引用したものに過ぎません。興味ある方は本気で手に取ることをお勧めします。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

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