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2013年6月23日日曜日

わからないことをわからないと言う意識

 昨日の記事でも少し触れましたが、私が意見を発信する際に気を付けていることとして「わからないことははっきりとわからない」と言うようにしています。これには一つエピソードがあり、その時は私が中学生の頃に戻ります。

 当時、確か中学一年生の夏休みに出された読書感想文の宿題用として図書館で何故か死刑関連の本を読んでいたのですが、その本で死刑は犯罪抑止につながるのかどうかという項目で、「ここ数年の犯罪件数は増えていると思うか?」という質問のアンケートが載せられており、「はい」、「いいえ」、「わからない」の三通りの回答割合が掲載されていました。確か「はい」の割合が最も高かったと思うのですが実態は逆で、むしろ当時の犯罪件数は減少傾向にありました。
 これと同様のものでよく少年犯罪の認知件数がありますが、テレビでセンセーショナルに報じられることから増加傾向にあると思われがちですが、前年比では増えたりする年もあるものの、1980年代と2000年代を比較すると大幅に減少しております。なんで増加していると思われるのかというと、マスメディアがセンセーショナルに報道しがちだからだと言われている、というかそれしか有り得ません。

 話は戻りますがまだくちばしの青いガキンチョだったこともあり、実際には犯罪件数が減っているという事実にかなり驚くとともに、「何故自分は見たこともない統計に対して増えているなどと勝手に判断したのだろう」と思い、「わからない」と回答した人たちになにやら敬意を持ちました。今思い返すとこの頃に統計に対する意識というものが芽生え、わからないものは調査して調べる、または統計結果を必ず出すようにしようという変な性格が方向づいたのだと思います。

 ソクラテスの無知の知ではありませんが、知らないということを知らないというのは簡単そうに見えて実は必ずしもそうではないような気がします。自分が一体何を理解していて何を理解していないのかを把握することは重要ではありますが、それをきちんと実践できてるかとなるとまだ疑問です。出来ないなりにしろそういったことに気を付けることが意見を主張する上で大事なのではというのが、今日の私の意見です。

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