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2013年2月23日土曜日

近衛文麿について

 先日、「松岡洋介について」の記事のコメント欄でリクエストを受けたので、松岡洋介とはある意味切っても切れない縁である近衛文麿について今日は私見を書いていこうと思います。

近衛文麿(Wikipedia)

 日本人なら近衛文麿と聞いて大体どんな人かはすぐに頭に思い浮かぶかと思います。また日本史に詳しい方なら、「歴代総理のうち最も暗愚だった人物」という評論を聞いたこともあるのではないでしょうか。もっとも現在において暗愚な総理ときたらぶっちぎりで鳩山由紀夫元総理の名が挙がってくるでしょうが。

 近衛文麿の簡単な来歴から書いていくと公家の最高位である五摂家の中でも筆頭に当たる近衛家、いわば公家の中の公家の出身です。父の近衛篤麿も貴族院議長をしており活発な政治活動を行っていた人物なのですが、長男である近衛文麿がわずか12歳の時に借金を残して逝去しております。幼少時は同じく公家出身の政治家であり総理も務めた西園寺公望の庇護を受けて育ち、長じてからは貴族院議員として父親同様に活発な政治活動を開始します。
 彼が政治家として優れていた点を挙げると、身も蓋もないですがそのルックスです。現代で言うなら、本人にとっては心外かもしれませんが小泉進次郎氏のようなイメージに近いように思え、イケメンで背も高かったことから早い頃から有権者の間で高い人気を得ることとなります。また本人もその後の動向を見る限りだとどうも乗せられやすい性格をしていた節があり、周囲から寄せられる期待の声を真に受けたのか貴族院内で独自グループを作るなどやたら熱心に活動しております。

 そうした努力が実ったのか、1937年に日本の総理としては伊藤博文に次いで最も若い45歳7ヶ月で総理に就任します。彼が総理に就任できたのは政界、軍部、有権者から高い人気を得ていたことに加え、当時の日本が置かれたやや特殊な状況があります。どういう状況かというと、世界恐慌と冷害によって日本国内では明日の食事もままならない大量の貧困者が生まれていた一方、政党政治が発達したことによって政界では賄賂をはじめとした汚職が酷かったようです。また予算獲得などのために軍部が徐々に政界に対して過剰な要求を行うようになり、五一五事件や二二六事件など首相暗殺を含む過激な行動に出る軍人も現れるほどでした。この状況下で首相に求められた人物像というのは、国民、政党、軍部のどこからも納得される人材だったのだと思います。良く言えば一つに偏っていない、悪く言えば自分の色が薄い人物がこれに当たり、近衛文麿がそれに適合したためではないかと私は考えています。

 何はともあれそうやって総理に就任した近衛でしたが、就任早々に日中戦争の端緒となる盧溝橋事件がいきなり勃発します。ちなみに日本人は7/7と来ると七夕を連想しますが、中国人はリアルにこの盧溝橋事件の開戦日を覚えており(中国語では「七七事変」のため)、中国にいる間は少し注意が必要となる日です。
 この盧溝橋事件が起きた当初、近衛はあくまで満州にいる日本軍と中国軍が偶発的にぶつかっただけとして、中国政府と話して紛争として処理する方針を打ち出しました。ただそう言っている一方で軍部に臨時予算を認めたりさらなる派兵を匂わせたりなど言行が一致せず、中国というか蒋介石側も徐々に不信感を持っていったと聞きます。そして盧溝橋事件から約1ヶ月後の第二次上海事変を契機に蒋介石との交渉を打ち切り、具体的な攻略目標もないまま全面戦争方針を出すに至ったわけです。

 よく日本と中国が戦争に突入した経緯に対して、「中国側が日本を挑発したり交錯するなどして無理矢理戦争に引き込んだ」という説を主張する人がいます。私としては確かに当時、中国共産党などのように蒋介石率いる国民政府と日本がぶつかることで得する団体や人物がいたことからそうした説が全く有り得ないとは思うのですが、それ以上に日本が中国との全面戦争に至った背景にはこの時の近衛の優柔不断さも大きな要因になっていると言わざるを得ません。
 私個人の意見としては、近衛が「不拡大方針」を掲げながら派兵や軍事予算増額などあべこべな態度を実行したのは、仮に戦闘が本格的になった時への備え程度の感覚だったんじゃないかと思います。そう思うのもこの後の近衛の判断というか行動がどれも場当たり的で、確固たる信念というか政策規範が一切なく、バックボーンがない政治家の典型みたいだからです。いろいろ意見はありますが、まだこの時期であれば近衛が本気で行えば軍部の暴走も抑えられたような気がしますし。

 その後、一旦は総理を辞職しますが間隔を置いての再登板後は「新体制運動」を提唱し、国家総動員法などを作るなど全体主義的な政策を展開していくようになります。また再登板後は松岡洋介のこちらも骨のない外交に振り回され、以前以上に強圧的となっていた軍部も抑えきれず流されるままに太平洋戦争までの過程を突き進むこととなり、開戦が視野に入ってきたところで事実上、投げ出す形で総理職を東条英機に明け渡しております。
 太平洋戦争開始後は戦況の悪化とともに木戸幸一、吉田茂などと協力して終戦工作を展開。終戦後はどうも政界復帰を目論んでいたようで新憲法策定に乗り気だったと伝えられますが、GHQは戦犯として処分する方針を固めたことを悟り、SPが逮捕に訪れたその日に服毒自殺を遂げております。

 近衛に対する私の評価をありのままに書くと、とにもかくにも優柔不断であることに尽きます。対中政策が一致しなかったことはもとより軍部に対する対応、また国内での全体主義路線への傾倒などを見るにつけこの人は日本をどこに持っていきたかったのか全く見えません。ただ唯一一貫していたと言えるのはこちらは公家らしく、国体の護持こと天皇制への高い忠誠心です。
 戦時中の終戦工作もどちらかといえば日本のためというより天皇家を守るために動いていた節があり、最後に服毒自殺を図ったのも佐藤優氏をして「公家は逃げ足が早い」と言わしめております。同じく公家出身の総理大臣としては細川護煕氏がいますが、両者ともに何が何でも何か一つの政策をやり遂げようというよりも、与えられた役割を自分のできる範囲で実行しようというような態度がある気がします。ちなみに、細川護煕氏の父親である故細川護貞は近衛文麿の娘婿で、戦時中の宮中動向を記した詳細な日記を残しております。でもって息子が総理に就任した際のインタビューでは、「あれの性格ではいずれ投げ出すだろう」という、その後現実となる予想を述べているのですが、間近に近衛文麿を見ていたせいもあるんじゃないかと密かに見ております。

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