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2012年1月23日月曜日

日本に影響を残した外国人~シーボルトの子供たち

 相変わらず連休真っ只中。今日は午後1時から4時まで昼寝して過ごしました。寝る子は育つというが本当だろうか、ってそもそももう成人しているけど。

 さて以前にこの連載でシーボルトを取り上げたことがありますが、彼自身が日本に与えた影響は紛れもなく非常に大きいのですが、彼の子供たちも父親に負けず劣らず様々な方面で日本に対し大きな貢献をしてくれております。そこで今日はシーボルトの子供たちについて、決して暇で時間が有り余っているからじゃないけどちょっとまとめてみることにしました。

楠本イネ(Wikipedia)
 楠本イネはシーボルトが最初に来日した際、長崎の出島で日本人女性のお滝との間でもうけた子供で、当時としては珍しいハーフの女性でした。父親のシーボルト自身は彼女が幼い時に国外追放を受けることとなりましたが彼の弟子たちがイネらの生活を支え、シーボルト流の西洋医学からオランダ語を教えたとされています。なお彼女にオランダ語を教えた人物の中には村田蔵六こと後の大村益次郎もおり、皮肉な運命というべきか大村益次郎が京都で襲撃され落命した際には看護助手としてイネが看取っております。
 イネが32歳の1859年、日本が開国したことを受けて父親のシーボルトが再来日し、親子は感動の再会を果たします。またシーボルトが母国で設けた異母弟のアレクサンダー・フォン・シーボルトとも初めて会うこととなります。
 彼女自身は当時としては非常に珍しい西洋医学を修めていたことから幕末期には宇和島藩主の伊達宗城などから厚遇を受け、明治初期にも宮内省ご用達の医師として活躍していますが、1875年に医師業を資格制とする医術開業試験制度が始まり、当初この制度は女性医師を認めていなかったことから医療現場の第一線を退くこととなります(その後1884年に女性の受験も認められる)。

アレクサンダー・フォン・シーボルト(Wikipedia)
 アレクサンダーはシーボルトが国外追放を受けオランダに帰国した後に生まれた、彼の長男です。日本には若干12歳の頃に父の再来日に同行する形で初めてやってきて、通訳を行う外交官として幕末の様々な事件処理に数多く関わっております。主だったものを上げると生麦事件、薩英戦争、下関戦争とまさに歴史の大事件に陰ながら関わっているわけですが、1867年のパリ万博の際には幕府名代として派遣された特区側義信の弟である徳川昭武に同行して一時帰欧しております。
 その後、1869年に幕府の命令を受ける形で弟のハインリッヒ・フォン・シーボルトを伴い日本に再び来日します。帰国後は正式に明治政府から任官を受けて通訳兼秘書として様々な人物の下につき、不平等条約改正に取り組んでいた井上薫の秘書として欧州各国政府との交渉にも参加し、これは青木周蔵(駐英公使)の部下だった時代ですが日英通商航海条約の調印にも立ち会っているようです。
 アレクサンダーは1911年に死去しますが、それまで明治政府の下で実に40年以上も外交官として働いており、文字通りお雇い外国人として明治期を代表する人物の一人と言って間違いないでしょう。

ハインリッヒ・フォン・シーボルト(Wikipedia)
 ハインリッヒは兄の再来日の際に同行し、既に明治に時代の入った1869年に初来日します。日本でハインリッヒは兄同様に通訳兼外交官として仕事を得て、1873年には兄とともにウィーン万博の日本館の準備に関わって連日の大盛況に導いています。
 こうした外交官として活躍する一方、この前紹介したエドワード・モースとほぼ同時期に大森貝塚を発見するなど日本の考古学の発展にも深く寄与しており、骨董品を集めては日本人仲間との間で紹介し合っております。
 最終的に彼はオーストリアで没しますが、この時に彼を診ていたのはこれもまた今度紹介したいと思うエルヴィン・フォン・ベルツことベルツ博士です。本当にこの時代の外国人はみんなつながってるなぁ。

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