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2011年7月2日土曜日

奴国、邪馬台国、ヤマト王権の関係

 ちょっと期間が空きましたが、また古代史ネタです。前回までは古事記の解説が多かったですが今日はちょっとロマンある部分というか、資料館の紐解き部分をやります。

奴国
邪馬台国
ヤマト王権(Wikipedia)

 日本古代史における最大の論争は邪馬台国が九州、近畿、どちらにあったのかという「邪馬台国論争」でありますが、この論争については近年決着がつきつつあり、出土品などの調査から近畿説が強まっており私もこれを支持します。その上で次に主題となる論争は、恐らくこの古代三王国とも言うべき上記の国々の関係だと思います。

 上記三王国のうち、奴国、邪馬台国は中国の史書中に現れる王国です。どちらも、特に奴国については後漢書に書かれている通りの金印が出土していることからその存在は確実であることは間違いなく、また邪馬台国についても数多く現れる出土品、そして三国志魏志倭人伝と晋書の記述などからこちらも存在したことは確実でしょう。ヤマト王権については日本国内の古事記や日本書紀に頼る所が多いものの、朝鮮半島で出土した広開土王碑や畿内に数多くある古墳からも疑う余地はないでしょう。問題はこれらの国の関係というか連続性で、先ほどの邪馬台国がどこにあるのかという論争と合わせて様々な仮説が昔から現在に至るまで盛んに論壇をにぎわしめております。

 まず奴国と邪馬台国の関係性ですが、これについては私は両国は全く関係のない別々の政権だったと考えております。北九州にあった奴国が時代を経て邪馬台国になったという仮説をたまに見かけるものの、これはそもそもの話として邪馬台国が九州にあったことを前提とする説です。先にも述べた通りに私は邪馬台国は近畿にあったと考えており、また時代もかなり異なっていることから関係性は全くないと思います。関係性を証明する史料はおろか出土品もない状態ですし。
 肝心なのはその次の邪馬台国とヤマト王権の関係性です。どちらも弥生時代後半から古墳時代にかけて近畿に存在した類推され、中国に使者を送るだけの代表制と文化を持ち合わせていることから両国は同一の王朝、もしくは系譜を持つのではないかというのが邪馬台国の近畿説が強まるたびに仮説が現れるようになりました。

 ただこれに関しても先に結論を述べると、私はこちらも全く関係はない別々の王朝だと考えます。根拠としましては中国の史料中に現れる邪馬台国の記述で、邪馬台国は女王卑弥呼をトップに置くシャーマニズム性の強い祭祀国家です。これが古事記や日本書紀に書かれる古代ヤマト王権の姿とはどうも差があるように感じる上、中国に使者を送るという大事業について古事記や日本書紀がスルーするとは思えません。
 特に私が重要視するのは卑弥呼の死後についでです。中国の史料では卑弥呼の死後に男の王が立ったもののうまくいかず、最終的に卑弥呼に代わる別の巫女(壱与)が女王に立って落ち着いたと記しており、これは二代続けて女王が君臨しているということで考え方によっては卑弥呼の前や後も女王が最高権力者だったとも考えることが出来ます。どちらにしても相当女性の権力が高い国だったことが伺えるのですが、古事記や日本書紀だとそのような二代続けて女王が君臨するということは書いておりません。天皇の男系を強調するために敢えて書かなかった、改変したと考えることも不可能ではありませんが、古事記や日本書紀が成立した飛鳥、奈良時代は日本史上で最も多くの女性天皇が誕生している時期であり、改変する必要性があるのかとなると私は疑います。

 また邪馬台国とヤマト王権が連続性を持っている、同一政権という主張の中には卑弥呼は古事記に出てくる女性の別名だという説を数多く見かけますが、これはまた次回に書きますが聞いててあくまで素人ながらも見ていて非常に怪しいものばかりです。小説のネタなら許せるけど、いくらなんでも調子に乗りすぎじゃないかと思うくらい強引な説も少なくありません。

 最終的に結論を述べると、邪馬台国と初期ヤマト王権は同時代に同じ近畿地方に存在していた可能性はあるものの、それぞれ全く関係のない別政権だったと私は思います。それゆえに邪馬台国は晋に使者を派遣後、自然消滅したか侵略されたかで滅んだのではないかと考えております。それを滅ぼしたのはヤマト王権かもしれませんし別の豪族かもしれませんが、何かしら確たる史料や出土品が出ない限りは両国を無理矢理結びつける議論はあまり必要ないのではないかというのが今日の意見です。

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