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2010年5月16日日曜日

ストレスは敵なのか?

 以前に読んだ事のある評論文でこんな実験が紹介されていました。実験内容は透明な水槽を二つ用意して、片方にはAという魚、もう片方にはその魚を主に捕食する、言わばAの天敵となるBという魚を入れて、それぞれの水槽を隣り合わせて配置しながら観察したそうです。もちろん水槽が別々なのでAが捕食されるという事はありえないのですが、透明な水槽のためにAは常に自分の天敵を近くで見ている事になり、意図的にストレスを与えながら生活させるとどのような変化が起こるかを調べて見たそうです。
 そうして観察を続けてみるとなんとAの魚は平均的な寿命の三倍も生存し続けたそうで、この実験結果から研究者は、ある程度のストレスは細胞やその他諸々の器官を活性化させる可能性があるのではとまとめたそうです。

 この実験を引用しながら論者は、一般にストレスは社会生活上でマイナスの効果しか引き起こさないと思われがちだが、過剰なストレスならともかく一定度のストレスは身体に対して好影響を与える要素の方が強いとまとめ、その一つの例として元オリックスの清原選手を引き合いに出していました。清原選手は最初に在籍していた西武時代には巨人に行きたいという強い願望(=ストレス)があったがゆえに立派な打撃成績も挙げることが出来たが、巨人に移籍した後はその願望が達成されてしまったがために西武時代ほどの成績を途端にあげることができなくなったのではないかと述べていました。

 清原選手の例が正しいかどうかはともかくとして、この話を一読した私はなんとなく、この論者の言わんとするストレスというのは「プレッシャー」とも言い換える事が出来るのではないかと感じました。もちろんどっちの言葉を使ってもいいのですが、どちらも心的圧迫感を表現する言葉ながらストレスでは負の意味、プレッシャーは負と正の意味を両方兼ね備えているように思います。ほんとどっちだっていいんだけど。

 話は戻りストレスについてですが、やっぱり一般社会では「ストレスは敵だ」、「ストレスをなくそう」という言葉があちこちで言われるほど世間ではストレスは嫌われていますが、私もこの論者同様にストレスは必ずしも敵ではないと考えております。私自身の体験で言えば全くストレスがない状態だった頃、だらけた生活もいい所と思うほどに行動に能動さがなくなり、何かしら小説なり文章なりを書こうと思っても時間があるにもかかわらず実行に移せない日々が続きました。
 それに比して現在は明らかにそのストレスのない時代に比べて自分の周囲の環境や余暇に使える時間的余裕が悪化しているにもかかわらず、当時の自分じゃ決してなし得ないほどの膨大な文章量を毎日このブログで更新し続けております。よく「忙中、閑あり」とは言いますが、あながち間違っていない気がします。

 もちろんうつ病を発症させるような過剰なストレス環境は間違いなく問題ですが、そうでなくてややうっとうしいと思う程度のストレスであれば、そのストレスが全くない状態より人間はかえって能動的に、人間らしく生きていけるのではないかと思います。程度的には、「かったるくて、やってらんねぇよ(´Д`)」と思いつつも毎日それなりに生活していける位が適量ではないかと見ていますが、「このままじゃ、死んじゃう(ノД`)」と思うほどなら明らかに過剰なので無理せずに休んだ方がいいと思います。

 ここで終えても全く問題はないのですが敢えてここで社会学的な発想をすると、今の日本はあまりにもストレスを敵視するあまりにかえってストレスに対する耐性を自ら弱めているのではないかとも感じます。ここら辺は渡辺淳一氏の主張する「鈍感力」にも関連してきますが気にしなくてもいいものまで気にしてしまうと無駄に疲れてしまうようなもので、うつ病を引き合いに出すと、「こんなにストレスを抱えてれば、うつ病になるんじゃ(>'A`)>」という風に無駄な不安を覚えて、自ら追い込む事でうつ病になってしまうという例も実際によく聞きます。

 ではこのような自己暗示的なうつ病を回避するためには何がいいのかと言えば、先程の鈍感力を養うという方法と、ストレスを如何に味方に付けるかだと私は思います。スポーツの世界ではプレッシャーを如何に自分の力にするかというトレーニング方法があると聞きますがそれと同じ事で、自分にかかる心的圧力を、「これだけ期待されているんだ」、「チームにとって自分はなくちゃならないんだ」というように前向きに捉えることで通常時よりもより大きな貢献ができるようになる、所謂大舞台に強い選手となることができるそうです。

 なので今日の内容をまとめると、「ストレスは敵だ」とは言わず、「ストレスは敵にも味方にもなる。お前次第でな」というのが、私の意見というわけです。

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