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2010年1月12日火曜日

都会と田舎の時間速度の違い

 実に三ヶ月ぶりに「時間の概念」のカテゴリー記事です。始めたはいいけど北京留学記の記事の連載と掛け持ちだとやっぱり大変で、ひとまず留学記を終えてから再開しようかと思っていたら最後の記事からもう三ヶ月も経ってしまいました。いくらなんでも、いい加減な計画だったと反省しきりです。
 ただ元々このカテゴリーの記事は内容的にあまり連関は少なくなく、今日のこの記事から読んでもあまり影響はないかと思います。ただこれまでの記事は単体でも我ながらよく出来ていると思うので、興味があれば上記のリンクから読み返していただけると幸いです。

 それでは本題に入りますが、よく「田舎に帰ると時間がゆっくりと流れる」という呟きを日常で聞くことはないでしょうか。私自身もお袋の実家の鹿児島県に帰るとやはり同じように感じ、同じ一時間でも関東での生活と比べると随分と長く感じてしまいますし、実際に周りに聞いても同じような返事が返ってきます。
 では都会での生活より田舎での生活の方が時間が長く感じると仮定した上で一体どうしてそのような時間間隔に差が生まれるのか、もったいぶらずに考えられるその要因を明かすと、私はまず雑音の量や大きさが大きく影響しているかと思います。

 雑音、というよりも最近の日本語だと「ノイズ」と表現することが増えていますが、これがどうして時間間隔に影響を及ぼすのかという、ひとつこの様な状況を連想してみてください。ある場所で友人が帰ってくるまで30分ほど待たなければならないとして、車や人が激しく往来する雑踏の中で待つのと、人どころか獣も通らないような山道で一人ぽつんと待ち続けるのとでは一体どちらの方がその30分間という絶対時間を長く感じるでしょうか。あくまで私の感覚ですが、私は後者の方が圧倒的に長く感じるかと思います。

 またここまで極端な例をとらなくとも、外から雑音が入ってくる部屋と完全に防音が保たれる部屋とで同じ十分間椅子に座っているのを比べれば、感覚的には何も音が聞こえない部屋で座っている方が長く感じるのではないかと思います。出来ればこういう実験を100人単位くらいでやってみたいところですが、どこかやってないかな。

 この様にいろいろ比較してみると、雑音があるかないかで同じ一分や一時間に感じる長さの間隔が変わってくるのではないかという気がしてきます。またこれまた私の体験談ですが、同じ勉強をするにしても静かな図書室でやるのと音楽を聞きながらやるのとではなんとなく勉強した時間が違ってくるような気もします。
 私が思うにこれらの感覚の差異は、一つのものに集中するか複数のものに集中するか、ということから来るのではないかと思います。

 雑音が聞こえない環境で勉強をする場合、その本人が横着しないことを前提にすればその意識は勉強科目へ集中して注がれます。それに対して音楽を聴いたり、雑音の入る環境ではよっぽど周りを気にせずに出来る人以外は勉強科目とともに耳に入ってくる情報こと雑音、なんだったら車の音とか人の咳の音とかに意識が分散してしまいます。
 もしそういった周囲の雑音が時間感覚に影響するとこれまた仮定すると、私の解釈では意識の集中対象の数がそれら時間間隔に影響を与えているのではないかと考えます。例えば意識が向かう対象が少なければ時間はゆっくりと感じられ、逆にたくさん雑音があったり道路を走ったりする車に注意しなければならないなど、意識する対象が多い環境では時間が早く流れるように感じる……といった具合で。

 都会と田舎の時間間隔の違いは、恐らくここにあるのではないかと思います。もちろん大分以前の「社会における時間の速度~ゆっくり江戸時代編」にて私は、「物事が変化するのを見て初めて時間の流れを感じる」という一つの定義を出しましたが、建築物や人の流れの変化の量も都会と田舎では雲泥の差があり、そうしたものもそれぞれの時間間隔に影響を与えているというのも非常に大きいでしょうが。

 ただこの記事ではそうした変化量の度合いは小さく扱い、都会と田舎を引き合いに出して敢えて雑音というものを大きく取り上げました。今の私はいちおう都市部に居住していますが、やはりこういったところで生活していると一切無音になる時間が非常に少なく感じます。逆に以前に京都に住んでいた頃は一つ辻を曲がると昼間でもどこも驚くくらいに閑静になり、下宿にいた頃も夜なんか街灯が少なくて真っ暗な上に無音なもんだから、恐いくらいに夜の時間が長く感じることが出来ました。私の友人などは逆にその夜が長いのが辛かったらしく、夜な夜な町内を徘徊して立ち読みの常習犯としてその名を轟かせていましたが……。

 最後に次回への引きとして、この記事で私は、「一つのものに集中するか複数のものに集中するか」が時間間隔を左右するとして、集中の対象が少なければ時間は長く感じるのではと書きましたが、恐らくこれを読んで、「でも時間を忘れるくらいに何か一つに集中するとも言わない?(・д・)」、という風に思った型もいるのではないかと思います。事実私もそう思いますし、集中対象が一つでも時間を短く感じることも少なくないと思います。
 ではそうしたことは何故起こるのか、次回はその集中対象と集中度の関連について算数的な話を書こうと思います。

2 件のコメント:

takedowngate さんのコメント...

いつも楽しく拝見しています。

さて、音が時間の感覚に関係しているとのことですが、聴覚によって時間という感覚がとらえられるという話があります。(逆に視覚では時間を捕えられず、空間を捕えるとのこと。)
なので、無音が時間を長く感じさせるのはそういった背景があるのかもしれません。

花園祐 さんのコメント...

 takedowngateさん、こちらこそいつもコメントありがとうございます。

 実際に生活してく上で、時間を捉える感覚は視覚よりも聴覚という感じがしますね。まぁ時間を捉えるったって、スタンドの「世界」を使うわけじゃないけど。

 逆に視覚では本当に時間を捉えることが出来ないのか、それとも聴覚とは又違った何か形のないものを捉えられるのか、こういった話題には個人的に興味が尽きません。