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2009年2月21日土曜日

日本の教育における想像性の問題

 昨日に引き続き日本の教育制度への批判記事です。
 去年にノーベル賞を受賞した益川氏がよくセンター試験などの現在の試験制度には、子供の想像性を問うような問題がないなどといって激しく批判していたことは恐らく読者の方も記憶に新しいと思われます。実は益川氏の主張は現実に確認されていることで、国際学力テストなどで日本の子供は定理や公式などの知識はあるものの、それを応用する力が非常に低いということがテスト結果で現れています。
 一例を出すと、平行四辺形の面積を「底辺×高さ」で出す問題については正解率が高いものの、街路地図を見せて平行四辺形の形となっている部分の面積を求めたところ、街路の区画などから底辺と高さの長さが簡単に類推できるにもかかわらず、先ほど正解した日本の子供の多くが解答できなかったという結果が報告されています。

 実際に予備校で講師をしている友人にこの件で話を聞くと、最近の子供は本当に書かれている文章の内容が読み込めない人間が多いと聞きました。それこそ算数や数学の文章問題となると、図形の角度を求めているのに解答欄に長さとか、ひどい場合には変な四角形の図を書き込んだりする子供もいるらしく、一昔前のCMみたいに何から教えていいのかわからなくなる時が多々あるそうです。

 ここで話は変わって私の体験談ですが、一応私の時代からも日本の子供には想像(創造?)性が低いという指摘がよく教育界でされており、またもそういった言質を真に受けた当時の私は何を思ったのか、数学などならともかく何かを説明する国語の記述問題などは誰も思いつかないような、突飛な回答にこそ真の価値があると信じ込んで、今思うとものすごい答案を毎回提出していました。
 そんなもんだから、中学校の頃の成績というのはひどいものでした。当時は大体180人中160番台くらいだった気がします。

 しかし中学三年生位になった頃、ちょっと思うことがあってあることを実験しました。
 それまで私は前述の通りに自分で物を考えてオリジナルな回答を出した方が評価されると思っており、教師が授業中に言っていること、それこそ国語なんかは先生が授業中に説明した解釈とはなるべく異なる回答を出すように心掛けていたのですが、ある日試しにテストの回答に教師の授業中の解釈そのまんまを書いてみたのですが、そしたら自分でもびっくりする位に正解率が上がっていきました。

 そのあまりの成果に私も驚き、それ以降授業中に私は理科や数学といったほかの科目でも教師が言う言葉を細かくチェックするようになり、授業中のちょっとしたアクセントや表現の違いからどこがテストに出るのかを予想しては当てることによって当時に成績はぐんぐんと上昇して行きました。あんまりにもどこが問題に出るのかを当てるもんだから、高校に入った頃なんかは予想屋として友人らの得点上昇に一役買っていました。
 しかしこうして成績を上げることについて、私自身は素直に喜べませんでした。言ってしまえば自分が考える余地をなくして教師の言う事通りにテストの回答に書くことが、果たして自分の能力の向上につながるのか疑問だったからです。そうはいっても成績を上げねば親からもにらまれるし、これは本意ではないと自分に言い聞かせながら高校時代のテスト期間を過ごしていました。

 そんなもんだから、益川氏の教育制度についての話を聞いたときには私も素直に納得しました。数学だって問題を工夫すれば解答に至るアプローチが複数あるものが作れるのですが、試験には単一のアプローチしかないようなものほど使われている気がしますし、国語の問題に至っては解釈なんて人それぞれなのに問題作成者の意図に沿ったものを出さないと正解が得られない。こんな試験で、どんな人材が育つのか私は不安です。
 更に言えば、国語の記述式解答で50文字など制限してあるのは、45文字以上書かないと正解にならないという暗黙のルールにも不愉快さを覚えます。私は文章というものは短く表現できるに越したことはないので、20文字であろうと30文字であろうと核心をついていれば正解を与えるべきだと思うのですが、そんなことしてたらすごい点数になってしまいます。

 以上のように、日本の教育にはたくさんの問題がありますが、試験制度それ自体にも問題があるというのが今日の私の意見です。

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