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2009年1月3日土曜日

私が平賀源内を好きなわけ

 歴史上の人物で誰が一番好きかといったら、私はまず間違いなく平賀源内を挙げます。何気にこの平賀源内という人物に関しては子供の頃に初めて買ってもらった歴史マンガもこの人のものでしたし、源内の出身地である香川県の志度にもわざわざ足を運んで旧宅などに赴くなどいろいろと関わりが深い人物です。
 それで結論から言いますが、私が何故これほどまで源内が好きなのかというと、恐らくその中途半端さにあると考えています。

 よく平賀源内は摩擦発電機ことエレキテルの発明ばかりが有名ですが、このエレキテル自体はその後何かに応用されたり当時の電気科学の発展に寄与したわけでなく、言ってしまえばその製作技術は凄くとも当時の人たちを驚かしただけにしかなりませんでした。
 このエレキテルを筆頭に、平賀源内というのは確かに当時一級の文化人であり科学者でありましたが、親友の杉田玄白が解体新書を作って当時の日本医学に貢献したのを比べると、珍しいものや突飛なことはよくやっているもののこれといった社会への目立った貢献は皆無に近いです。

 しかしそんな源内ですが、確かに何か一つの分野への貢献はこれといって目立つものはないものの、別々の分野を一つにまとめる結節点というような役割では様々な功績があります。
 まず第一に挙げられるのは、「物品会」こと日本で始めての博覧会を開催したことに尽きます。当時は各地域でそれぞれの学者がそれぞれで研究していたに過ぎなかったのですが、源内の発案で各学者が自分らの研究している薬草や鉱物を持ち寄り、互いに公開して見聞を広めようと日本発の博覧会の物品会が開かれました。この物品会は第一回から第三回までは源内の師匠の田村藍水の主催でしたが第四回にて源内が主催し、規模もそれまでとは桁違いの数千点に渡る品目の展覧会となり、当時の学者たちの交流に一役買っています。

 そしてもう一つの大きな仲介役とも言うべき役割は、親友である杉田玄白の解体新書に関わる役割です。
 源内は鉱山技師としても優秀で秋田藩に招聘されて技術者の指導に当たっていた頃、ある秋田藩士の絵を見てその者を呼び出し、源内が長崎に遊学中に身につけた西洋画の技術を教え始めました。その秋田藩士の名は小田野直武といい、そうして秋田滞在中に西洋画を教え続け、源内の江戸帰郷後に小田野直武も江戸勤務となって師弟関係はそのまま続くこととなりました。
 何を隠そう、この小田野直武こそ解体新書の人体スケッチといった挿絵を描いた人物であるのです。杉田玄白らは解体新書の翻訳は出来ても、詳細な西洋画スケッチをどうすればいいかと源内に相談したところ、自分の弟子の直武に任せればいいと紹介し、直武の見事な絵画技術が加わって解体新書は完成に至ったのです。
 なおこの直武を秋田にて指導中、源内は直武と共に当時の秋田藩主である佐竹義敦に呼び出しを食らい、「俺も混ぜろよ」といって直武ととともに義敦も西洋画を学び、秋田蘭画という一つの西洋画ジャンルが生まれています。

 このように、意味合いはすこし違うかもしれませんがクロスカルチャー的な分野での源内の活躍は目を見張るものがあります。これらの功績に限らず小説でも源内の書いた「神霊矢口渡」は歌舞伎にも取り入れられ現在に至るまで公演され、また近年問題となりましたがアスベストの製品化も世界で初めて成功させるなど、文学や科学、果てには医学や芸術など源内の手をつけた分野というのは果てしなく広いものがあります。
 このように源内は多分野に渡って広く浅い活躍をしており、やはり一つ一つの功績が浅いためにどうも注目が低くなってしまうのは仕方がないかもしれませんが、私はというと逆にこのような源内の万能さとも言うべきクロスカルチャーを果たしたという人物像に対して強い好感を覚える傾向があります。

 そういうのも、私自身が他の人と比べて非常に飽きっぽい性格をしており、何か一つに自分の神経なり労力なりを集中できない人間だからだと思います。私自身でこの自分の傾向をかなり早い段階で自認しており、この性格をどうにか良い方向に向けられないものかと考えていた矢先に源内のことを知り、まさにこれだと私は思ったわけです。
 恐らくこのブログを長く読んでいる方などはわかると思いますが、このブログは全体で見ると非常に一貫性のない話で構成されています。やっぱり他の人のブログを読んでいると自分の好きなマンガとか、仕事、学問分野などある程度記事にする話が固定されているのですが、私はというと目下のところ、中国、政治、歴史、経済、社会、哲学などと、非常に取り上げる話の分野が幅広いと自負しています。

 こんな風になったのももちろん私自身の個性が影響しているわけで、飽きっぽい性格なのだからこの際、あらゆる分野に手を出して器用貧乏と言われようとも万能さを武器にして自分を育てていこうと、中学生辺りから意識的に取り組んできた結果と言えます。大学の専攻を選ぶ際もなるべく専門分野を固定しないように敢えて曖昧さが売りの社会学を選んだわけですし、大学に入った後も社会学の勉強はどうせ授業でやるのだからプライベートでは全然別の学問をやろうと経済学などに取り組んできました。

 近年、日本社会では専門性が高いことがただひたすらに価値が高いという傾向が強まっているように私は思います。確かに何かの新たな技術や分野を切り開くのに高い専門性が必要だというのはよくわかるのですが、源内のいた時代のように、そうして培った高い専門性はそれ一個では成り立たず、化学と医療が結びついて治療薬が生まれるように、クロスカルチャーが起こって初めて価値を生むものです。だからこそ、私は自分の育成方針について一切の疑義を挟まずにいられます。

 よく源内は「日本のレオナルド・ダヴィンチ」と評されますが、ダヴィンチも芸術分野に限らず科学などに貢献するなど万能の人で、そんなわけでこの人も私は大好きなわけであります。他にも万能さで言えば、アリストテレスとか曹操が来ますが、この際みんな大好きです。

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