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2008年12月8日月曜日

コミュニケーション力再考

 少し前に関西に行き、そこで恩師たちと会って久しぶりにあれこれ話をしたのですが、その際に多く話題になったのは若者の問題でした。
 私自身が若者に属し、恩師たちがある程度年齢の積んだ方たちだったので、お互いに思うところや見るところが違って情報交換のような形でなかなか楽しめたのですが、その話題の中で一人の恩師がこういっていました。

(先生)「私はいろいろな大学の関係者から最近よく相談を受けるのですが、このまえある大学ではせっかく正社員として就職した職場を卒業生たちの約四割が三年も持たずに退職するがどうしたらいいと聞かれたのですが、率直に言って今の若者たちに足りないのは年齢の違う人間と話すだけのコミュニケーション力が不足しているからだと思う」
(私)「いや先生、俺はそうは思いません。コミュニケーション力で物事を言い出したら範囲が非常に広くなるため、原因とかでちょっと曖昧になりますよ。ただ、その年齢の違う人と話せるかどうか、ってのは俺も気になります」

 私は以前に「日本人のコミュニケーション力とは」の記事の中で日本人の主張するコミュニケーション力には非常に中身の伴っていない曖昧なものだと主張しました。そのため先ほどの恩師の言った言葉に真っ向から反発したのですが、ただ年齢の違うものとのコミュニケーション力、と言われてちょっと思い当たる特殊な事例が思い当たり、反抗こそしたものの今もちょっと先生の言葉を再考している最中です。

 その特殊な事例というのは、まんま私のことです。
 恩師の言う現代の若者のコミュニケーション力不足の現象的なものは、共通点も多い年の近い自分たちの身の回りでだけコミュニケーションが完結するため、年齢の違う人や共通点の少ない人に対しては全くコミュニケーションが取れないというように、いわばコミュニケーションが狭い範囲にしか働かないのが問題だということです。いわれてみると確かに今の若者はそういうような点がちらほら見えるのですが、それに対して私はというと見事なまでにこれらとは真逆な経験をしてきました。というのも、同じ年齢の同学年の人間とはしょっちゅうケンカしたりで友達も少ないのですが、自分より年上や年下の相手との方がよくコミュニケーションが取れ、挙句には自分でもそういった年齢の違う相手の方が話しやすいとすら今でも思っています。

 恩師の言う通り、真にコミュニケーション力とは何かといえば、自分と共通点の少ない人間に対してどれだけ交流する力があるかどうか、という定義が最も正しく、言ってしまえば言語の通じない相手とか、思想や文化の違う相手とどれだけ深く付き合えるかというのが本来の指標になると思うのですが、現代の一般社会では「どれだけ友達がいるか」で判断することの方が多いと思います。私としてはたとえ同学年の日本人の友達が100人いる人より、一人の言葉の通じないインド人とハイタッチできるような人の方がコミュニケーション力は高いと思う(この場合、相手のインド人にも寄るが)のですが、世間ではどうもそうは行かないようです。

 私などは極端な例なのですが、このブログでも何度か書いていますが中学高校時代に周りにいた人間というのは今思い返してもあまり品行のよいとは言えない人間ばかりだったので、あえて自ら距離を置いていたのですが、先ほどの友達の数でコミュニケーション力が測られるのなら私はコミュニケーション力のない人間となってしまいます。私がよくないと思う点はまさにこの点で、言ってしまえば変な人間と大量に付き合ってもコミュニケーション力にカウントされしまう、というのは果たしてどんなものかと思います。特に最近はいじめなどに仲間はずれに合うのが怖いために加担する、といういじめの連鎖の話もよく聞きますし、友達の数とかでこうしたものを測るのは如何なものかと思います。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 そうですね。コミュニケーション能力といっても、ただ単に群れを成すだけの力なんて人一人のスキルとしてはなんら価値はないでしょうね。しかし、今の現実で己の保身のためにそういう力が社会で必要になっているのかもしれません。それこそ、自分をしっかり持っている人ならばいいのですが。自我に目覚めろっていうことだと僕は思います。僕も今現在、構築途中ですが。というか、一生をかけて自分の価値観を極めていきたいと思っています。 コミュニケーション能力については考えたことがありませんでした。今までは、自分に関係のない能力だとしか思っていなかったので。相変わらずのいい記事でした。

花園祐 さんのコメント...

 究極的に言うと、サカタさんの言わんとする「自我」というものを他人に100%表現できるというのがコミュニケーションにおける真髄だと私は考えています。人間はやっぱり多種多様で、どんな人間とも付き合っていけるという人は実際には皆無であるということを前提に、自分が表現する「自我」を相手に見せることで、この人とはやっていけるかどうか相手にしっかりと判断させることが究極のコミュニケーションだと思います。

 実は今日、体調悪くてこの記事は半分夢を見るような感じで書いたので、なんか誉めてもらえると「えっ、こんなのでいいの?」ってな具合で不思議な気がします。塚原卜伝が剣技の真髄は無念無想にありと言っていましたが、案が文章もそんなものかもしれません。