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2008年10月13日月曜日

北野たけし氏のドラマ出演について

たけしTBSドラマで東条英機首相役(YAHOOニュース)

 リンクに貼った記事によると、今度北野たけし氏が東条英機役でドラマに出演するそうです。それにしても、「たけし」という言葉の変換ってやけに多いな。あと「ひできやく」で変換したら「英機訳」ってのが一番上に出てきて、あと同じような変換が続いていきます。この「英機訳」ってなんだ?

 実はこの三日間は非常に体調悪くてほぼ全日布団に入ってフロントミッションをやっていたせいか、微妙に文章も妙な感じになっています。まぁブログなんだから本来ならこういう形でいいんですけど、本当に今日も調子悪いな。

 さて北野氏のこのドラマ出演のニュースを見て最初に私が思ったのは、そんだけ「オフィス北野」は金に困っているのか、でした。というのもこのところテレビをつけていると北野氏自らが出演するテレビCMが急増しており、以前にベネチア映画祭の舞台挨拶にて、「山本モナのおかげで火の車だよ」と言っていましたが、このところの北野氏の出演量の多さを見ているとあながち冗談にも思えなくなってきました。

 もっとも北野氏ほど好感度の高い芸能人であれば、「出る」といえばすぐにオファーは殺到するので、指し当たって事務所がこれからやばくなるということはないでしょう。ただ業界関係者たちの話によると、やはり報道番組でレギュラー出演していた山本モナが例の巨人の二岡(広島の人に聞くとすぐに、「あいつは非県民だ」と言われます)との騒動で降板を余儀なくされた件で、相当な額の違約金をオフィス北野は支出することとなったと言われており、もしこれが本当だとすると、大将自らでなくてはならないほどの損失だったということになります。まぁほんとのところは、映画の撮影資金がそろそろ減ってきたというのが真実でしょう。

 ここで話は北野氏からその北野氏の演じる東条英機に変わりますが、歴史上、日本で「カミソリ」と呼ばれた人物は二人おり、坂本龍馬の組織した海援隊の元隊員で外務大臣として不平等条約改正を行った陸奥宗光と、この東条英機です。
 カミソリ、と言うと鋭く切れるから二人とも相当に頭が賢かったと、周りで誰かが話題に挙げる度にそういう風に聞こえますが、確かに陸奥宗光は非常に頭の切れがよかったそうですが、その一方で別の意味でもキレやすい人物だったそうです。なんでも、坂本龍馬が暗殺された後に新撰組の隊員が下手人だと誤解して襲撃をかけたり、そのほかちょっとのことですぐ人と殴りあったりしたらしくて、そのためにカミソリという異名がついたそうです。

 それで東条英機ですが、まぁ普通の人と比べれば賢い人だったとは思います。ただ私が見ている限り、どうも世の中の人は東条の知力について過大評価しているような気がします。
 これはうちの親父の話ですが、東条は「カミソリ東条」と呼ばれるくらい賢くて陸大でも首席で卒業した……と信じ込んでいたのですが、これは真っ赤な嘘です。東条と陸大同期の中で首席で卒業したのはかつて私も「猛将列伝~聖将、今村均~」の記事の中で取り上げ、私個人非常に尊敬してやまない今村均氏です。また東条は陸大の受験を一発で受からずに三回目にてようやく合格した人物で、試験の成績的に見るならば決して「切れ者」ではないということがわかります。

 では何故カミソリの異名がついたのかですが、こっからは私の想像になるのですが、何でもかんでもテキスト通りにやっていたらではないかと考えています。
 何でも、軍隊の閲兵訓練にて東条は一から十までかつての行進、動作方法を徹底して行っていたそうです。このようになんでもテキスト通りに強制し、また自身もテキスト通りの発言しかせず、そんでもってテキストの内容をなんでもメモするメモ魔だったことから、切れ者という意味ではなく「こまめな奴」という意味でカミソリだったんじゃないかと思います。

 それに対して満州事変の張本人である石原莞爾はというと、先ほどの閲兵訓練において自部隊に対し、「いつも通りやれ」の一言で片付けたそうです。こんな風に正反対なのだから、この二人の関係は非常に悪かったそうです。
 ただ石原、東条の二人についた元部下という方の証言によると、その方が陸大を受験すると話したら石原は勉強する時間もないほどその方へ仕事を押し付けるようにして、東条は逆にいろいろなところで勉強時間など便宜を図ってくれたそうで、上司としては東条の方が暖かかったと述べています。この件は石原莞爾に言わせると、陸大に行って幹部となるならこれくらいの仕事量をこなせなくてはいけないという意味での仕置きだったそうですが、いろいろな人の証言だと、東条は身近な人間に対しては非常に優しかった一方で、疎遠な人間には扱いが厳しかったというのは一致しています。

 そんなもんだから東条と距離の短かった人は彼に対して温情的な弁護を行っており、その甲斐あってか私の見ている限りだとこのところは東条に対して、「東京裁判の被害者」というような認識が増えている気がします。
 しかしここで、そういったものをすべてひっくり返すある証言を紹介します。これは今年八月十二日に日経新聞がスクープした国立公文書館にあった資料で、昭和二十年八月十日から八月十四日までの東条の手記に書かれている内容なのですが、

「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者および国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて戦争指導に当たりたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感ずる」

 私はこの東条の手記をちょっとまえの文芸春秋にて見つけ、今月号にもまた紹介されていたのでこうして記事にしているのですが、昭和史家の保坂正康氏の解説によると、終戦の間際にもなって、敗戦となったのは国民がしっかりしなかったからだ、こんな国民を率いて指導していた自分はたまったものじゃなかったなどと、自分の責任を国民に擦り付けている無責任きわまりない価値観だと述べています。

 私自身は東条英機に対して、やはり良い感情を持つことが出来ません。東京裁判は確かに間違った裁判であったということは明らかですが、先ほどの保坂氏も言う通り、東京裁判がなくとも当時の日本の法体系下では東条はまず間違いなく処罰されるべき法律違反を悉く犯しており、出来ることならこの東条への同情論だけはあまり盛り上がってもらいたくないものです。

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